◆開戦から終戦、返還直前まで
1941年(昭16)12月8日の太平洋戦争の開戦を経て、立川飛行場周辺の航空関連製造工場や陸軍航空工廠(こうしょう)が戦争終盤に爆撃目標となり、45年2月以降、十数回に及ぶ空襲を受けた立川市(40年12月に市制施行)は大きな被害を受けて終戦を迎えた。
終戦により立川飛行場は米軍に接収され、東地区が極東航空資材軍(Far East Air Materiel Command、通称フィンカム基地)、西地区が極東空軍輸送飛行場となった。50年6月に勃発した朝鮮戦争により、立川の輸送拠点としての重要性を増すが、離陸した大型輸送機(C-124グローブマスター2)が現・小平市に墜落、乗員乗客129人が死亡する当時の世界最大航空事故も起きた。
朝鮮戦争停戦後は、輸送機の大型化・ジェット化による米軍駐留基地の滑走路拡張が計画された。立川ではそれに反対する運動が起き、砂川事件として記憶される不幸ないさかい、60年のベトナム戦争開始を経て、68年末の滑走路延長の断念公表に至った。輸送基地の役割は横田基地に移され、翌年には立川飛行場における米軍の飛行活動が停止した。終戦から四半世紀近くがたっていた。