◆軍事拠点へ
1938年(昭13)8月、飛行第五連隊は飛行第五戦隊に改編され、11月から千葉県柏への転営を開始した。残っていた航空第四教育隊も40年に柏に移った。飛行第五戦隊と入れ替わりに、発動機整備教育を主とする陸軍航空技術学校が所沢から移転してきた。同時期に村山にできた東京陸軍航空学校(通称=東航)と合わせ、教育面でも立川は重要性を増していった。
東地区の北に位置する立川飛行機でも、敷地と工場が拡張されている。今も残る5層の給水塔は、38年に建てられた。
そして戦前の立川飛行場の最後の大型案件として、陸軍航空工廠(こうしょう)が40年1月から西地区へ順次移転を開始した。同廠は陸軍の航空専用製造工場として名古屋で設立されており、移転先の立川の敷地は航空技術研究所や陸軍航空廠をはるかにしのぐ広大なものだった。移転当初における従業員総数も3000人を超える規模で、その住居として昭島に今も痕跡が残る八清住宅などが設けられた。本廠の設置に伴って、飛行場設置時にすでにあった養豚場は移転し、青梅線沿いに航空部品製造業者が集まり始めた。