◆羽田開場を経て

1931年(昭6)8月に羽田飛行場が開場し、日本航空輸送(株)や東京日日新聞社は退去したが、西地区の飛行学校や学生航空、朝日新聞社は33年9月までの約2年間、立川にとどまっていた。

33年の5月、陸軍航空本部技術部へ天皇陛下の行幸があり、8月には陸軍航空本部補給部所沢支部が同立川支部へ改称された。埼玉・所沢からの移転に先立った改称で、移転目的は補給の改善。移転先は民間施設跡の飛行場西地区であり、民間航空が33年9月までだったのはこのため。これによって、立川飛行場は補給拠点ともなり、その重要性は一層増した。民間航空もいなくなり、「空の都」から軍都へ変貌を遂げている。

35年8月、航空本部技術部が陸軍航空技術研究所へ、陸軍航空本部補給部立川支部が陸軍航空廠(こうくうしょう)立川支廠へと改編された。翌36年7月には、石川島飛行製作所も立川飛行機と商号変更している。

37年7月に日中紛争が起き、飛行第五連隊も部隊を大陸に派遣した。加藤隼戦闘隊で有名な加藤建夫大尉も、立川から出征している。その留守を埋めるように、要員教育を目的として航空第四教育隊が翌38年夏に立川に置かれた。