野球の国から 高校野球編

野球も人生も近道なし/蔦文也5

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池田高校にも春が来た。3月10日、三好市吉野川運動公園池田球場には池田ナインの声が響いていた。18年の練習試合初戦。

蔦文也氏の告別式に集まった大勢の弔問客
蔦文也氏の告別式に集まった大勢の弔問客

最近は必ず智弁和歌山が池田までやってくる。池田の元監督・岡田康志や現監督・井上力と、智弁和歌山を率いる高嶋仁との縁で、春を呼ぶ一戦が行われている。高嶋は公式戦と変わらない試合中立ちっぱなしの姿勢。智弁和歌山の選手も力を存分に出した。池田はダブルヘッダー2試合とも大敗した。

翌日、池田のチームは愛媛県へ遠征。居残りの10人に満たない部員は朝8時過ぎに学校グラウンドで練習を開始し、ランニングの掛け声は400メートルほど離れた蔦文也の自宅に届いた。

蔦は01年4月28日夜に、がんのため77歳で死去した。葬儀・告別式は自宅で営まれ、900人が参列。報徳学園監督時代に甲子園で戦った福島敦彦も訪れていた。帝京監督の前田三夫も駆けつけた。前田は83年センバツ1回戦で池田に0-11と大敗した後、蔦を師と仰ぎ、甲子園で優勝を果たした。蔦の死を惜しむ人が自宅周辺にあふれかえった。

51年に池田高校社会科教諭となった蔦は、翌年正式に野球部監督就任。戦時中に覚えた酒が、若き指導者だった時期には過ぎることが多かった。病院嫌いでもあった。甲子園で夏1回、春2回優勝を飾ったが、輝いたのは長い高校野球の歴史からみれば一瞬だろう。池田の監督として甲子園に初出場するまでには、20年かかった。輝くための準備期間は長く、苦しさも伴う。しかしそこに、信念が浮かび上がってくる。

「甲子園に初めて出るまでにかかった20年という期間を通して得た人生観は、野球に近道はないということじゃった。人生に近道はないということじゃ」

しっかりノックが打てないなどの理由を挙げて、92年3月に68歳で監督を正式引退した。同年、第1号の池田町名誉町民賞を受けている。蔦と野球を結んだ言葉がたくさん残った。

「山あいの町の子供たちに 一度でいいから 大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」

「鍛錬千日之行 勝負一瞬之行」

「たかが野球 されど野球」

多くの好選手や熱心な指導者も生まれた。16年から母校の監督を務める井上もその1人だ。86年センバツ優勝メンバーで、監督としても06、07年に徳島商で甲子園に出場した。だから井上は今、甲子園には「戻りたい」と表現する。恩師や先輩、同期、後輩、現役選手、町の人々ら大勢の思いとともに歩を進める。

センバツに出場できなかったある年の早春に聞いた、蔦の声を思い出した。

「もう今から夏が待ち遠しい。甲子園というところは、いくつになっても『ああ、もう1度行ってみたい』と思うところじゃ。だから生徒を鍛える」

池田町南側の小高い斜面に「蔦本家累代之墓」がある。蔦の戒名は「觀徹院誠文球道大居士」。町の北に吉野川が流れ、すぐに山がそびえる。山あいの町から蔦は、はるか北東にある大きな野球場を見続けている。(敬称略=おわり)【宇佐見英治】

(2018年3月18日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)

 2018年夏、全国高校野球選手権大会(甲子園)が100回大会を迎えます。その記念大会へ向け、日刊スポーツが総力を挙げた連載を毎日掲載します。

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