野球の国から 高校野球編

野球をやるために名前を変えた/渡辺元智1

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全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念や、それを形づくる基点に迫る「監督シリーズ」ラストを飾る第16弾は、横浜(神奈川)を率いた渡辺元智さん(73)です。生きるために野球を始め、1965年のコーチ就任から始まった指導者生活は、2015年夏に平田徹新監督(34)に託すまで半世紀に及びます。春夏通算5度の甲子園優勝は名将の指導力の結晶といえます。その原点を全5回でお送りします。


約半世紀の指導者人生について語る横浜(神奈川)元監督の渡辺元智氏
約半世紀の指導者人生について語る横浜(神奈川)元監督の渡辺元智氏

甲子園春夏5度の全国制覇を成し遂げた渡辺元智は、高校野球の輝かしい歴史を築きあげた1人だ。愛甲猛、松坂大輔、涌井秀章、筒香嘉智…。数え切れないほどのスター選手を育てた名将は「自分が生き抜くために野球を始めた」と原点を語る。栄光より挫折。勝利より敗北。成功より失敗。自らが歩んできた道を顧みながら、約半世紀の指導者人生を歩んできた。

  ◇  ◇

「物心がついた時におやじたちはいなかった」。田中家の次男として誕生した渡辺は「元(はじめ)」と名付けられた。幼少期の記憶に両親はいない。父正己は結核を患い療養所へ入っていた。母和子の親戚筋がいる神奈川・松田町へ疎開した。叔父は酒が好きで、アルコールが切れればお膳をひっくり返した。「毎晩怯(おび)えていたが、よく面倒も見てもらった。釣りに連れて行ってくれたり、山で竹を切ってバットを作ってくれた」。戦後間もないころ、みなが生きるために必死だった。

田んぼが遊び場だった。電柱をベースに見立て、稲の切り株だらけの“グラウンド”で毎日泥だらけになった。月20円ほどの小遣いで紅梅キャラメルを買うのが楽しみだった。「川上(哲治)の赤バット、大下(弘)の青バット。今でいうブロマイドみたいなのが入っていてそれに魅了された。淡い夢を抱いた」。物のない時代に、華やかなプロ野球選手への憧れは増すばかりだった。

小学5年で家族のいる平塚に呼び戻された。家計は母が支えていた。

「みんな自分が生きることで精いっぱい。おふくろは家計、おやじは病気でいっぱい。おふくろ、おやじのためにも自分が一家を支えて、野球で身を立てようという気持ちが本格的に芽生えた。何としても生き抜く。おれには野球しかないと思った」

当時、神奈川は田丸仁が率いる法政二の全盛期だった。渡辺も受験し、補欠合格を得たが入学一時金を納める必要があった。実家にそんな余裕はなかった。「おやじに『野球を諦めて職業訓練所へ行け』と言われた」。その時、中学野球の名伯楽として平塚で名をはせていた笹尾晃平が横浜で指揮を執ると聞いた。後に恩師となる笹尾のもとへ、将来有望な中学生が続々と集まり始めた。渡辺も横浜への進学を決めた。しかし、当時越境入学は難しく、私立校の授業料を払う金もなかった。「野球の強い学校へ行ってどうしても甲子園へ行きたかった」。子どものいなかった母の妹の元へ養子に入り「渡辺元」となった。


渡辺元智氏(後列中央)小学3年生の時。祖母宅近所の畑の中での一枚、畑や田んぼで友だちと野球を始めた頃
渡辺元智氏(後列中央)小学3年生の時。祖母宅近所の畑の中での一枚、畑や田んぼで友だちと野球を始めた頃

「高校時代はとにかく鉄拳制裁だった」。笹尾のもとで厳しい3年間を過ごしたが、あと1歩のところで甲子園出場はかなわなかった。実力が認められ神奈川大へ進学したが、1年もたたないうちに右肩が悲鳴を上げた。手術を受けても痛みは取れなかった。「もう野球はできないのかと。自暴自棄になった」。19歳で夢を諦めた。千葉・姉ケ崎へ逃避しブルドーザーの修理工場で働いた。ケンカ三昧。房総半島を車で乗り回し、夢も希望も見いだせないまま1年間が過ぎようとしていたころ、恩師から声がかかった。指導者としての依頼だった。

「当時の横浜は、とんでもないのがいっぱいいて、屈辱に耐えがたい呼び名で呼ばれていた。自分に監督が務まるかと思ったが、また野球ができる喜びもあった。でも、実際に行ってみたらとんでもなかった」

選手から裏山に呼び出され、つかみ合う毎日。3年間コーチを務め、68年に監督へ就任した。血気盛んな24歳の青年監督には経験も指導力もない。荒くれ者とにらみ合う若さだけが武器だった。早朝からグラウンドに立ち、夜は車のライトを照らしながらノックした。腹筋のしすぎで血尿を出す選手もいた。練習が終われば自らはパチンコ屋に出向き、金を稼いだ。

「自分が生きるためにコーチ、監督をやっていて勝つことしかなかった。申し訳ないけど、当時、選手は勝つための道具だった」

執念だけでしごいていたある日、選手が倒れた。生死をさまよう姿を目の当たりにし、われに返った。

「本当にこんなことで勝てるのかと。自分の自己満足ではだめだと思った」

厳しくても、愛情を持って育ててくれた叔父や祖母を思い出した。拳を収め、選手と向き合うと決めた。しかし、その時渡辺の前にさらに大きな壁が立ちはだかった。東海大相模(神奈川)の監督、原貢だった。【和田美保】

◆渡辺元智(わたなべ・もとのり)1944年(昭19)11月3日、神奈川県生まれ。横浜(神奈川)では3番中堅手。3年夏は県4強。神奈川大から65年に母校コーチを務め68年に監督就任。98年には中日松坂らを擁し甲子園春夏連覇、国体も制し史上初の3冠を達成。高校日本代表監督を3度務め94年アジア選手権大会を優勝。甲子園には春夏計27度出場し歴代3位タイの51勝を挙げた。15年夏の神奈川大会を最後に勇退。家族は紀子(みちこ)夫人と2女。明大野球部に所属する孫の佳明とも甲子園に出場した。

(2018年3月19日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)

 2018年夏、全国高校野球選手権大会(甲子園)が100回大会を迎えます。その記念大会へ向け、日刊スポーツが総力を挙げた連載を毎日掲載します。

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