大阪偕星学園、6回に転がり込んだ初甲子園/大阪
<高校野球大阪大会:大阪偕星学園4-3大体大浪商>◇7月31日◇決勝◇舞洲ベースボールスタジアム
波乱の大阪を制したのは大阪偕星学園だった。春夏4度の全国優勝を誇る大体大浪商との決戦で、1-1の6回、主将で4番の田端拓海捕手(3年)が執念の決勝スクイズ。古豪を振り切った。大阪桐蔭、PL学園などが夏の舞台を去る中、雑草軍団が49代表の大トリで初の甲子園切符を手にした。
絶体絶命の危機を脱した先に歓喜があった。「やったぞ! 甲子園だ!」。マウンド上の光田悠哉投手(3年)に向かって、ナインの誰もが叫びながら駆け寄ってきた。「苦労して苦労してここまで来ました」。ベンチの山本皙(せき)監督(47)も、両手で顔を覆い男泣きした。
2点リードの9回裏、3連打で無死満塁。1点差まで迫られた。だが左腕は気持ちを奮い立たせた。「エースとして、信頼してくれた監督に、何とか恩返ししたい。自分の球を信じるしかない」。なお2死一、二塁。最後は満身の直球で三塁ゴロに打ち取った。
決勝点は主将の田端拓海捕手(3年)の“ミラクル打”だった。6回1死三塁で一塁線に執念のスリーバントスクイズ。転がったときはファウルゾーンだったが「入れ、入れ」と念じると、スピンがかかった打球はフェアゾーンに戻ってきた。
兄良基さんは大阪桐蔭で藤浪(阪神)と同期の甲子園春夏連覇メンバー。田端も兄と同じ道を希望したが、かなわなかった。知人の紹介で大阪偕星学園へ。山本監督とは「雑草でも一緒に桐蔭を倒そう」と約束し合った。「監督が、泣いているのを見たのは初めて」と田端。入学時の誓いを果たし、初の聖地へ乗り込む。【坂祐三】
◆大阪偕星学園 1929年(昭4)に此花商として創立の私立校。13年から現校名。生徒数は1047人(女子232人)。野球部は31年創部で部員数は74人。甲子園出場は春夏通じて初。OBは元広島金城基泰ら。所在地は大阪市生野区勝山南2の6の38。梶本秀二校長。
◆Vへの足跡◆
2回戦10-1岸和田
3回戦8-3大商大堺
4回戦8-1寝屋川
5回戦8-1東海大仰星
準々決勝3-2大阪桐蔭
準決勝11-0大冠
決勝4-3大体大浪商