【記者の目】2校が甲子園出場辞退、コロナ禍での開催はどうあるべきか?

  • 智弁和歌山対智弁学園 優勝旗を手にする智弁和歌山・宮坂主将(撮影・清水貴仁)

<記者の目>

異常な長雨に見舞われた今大会は、日程調整の難しさや継続試合の是非など、多くの課題や教訓を残した。最大の懸案は、コロナ禍での開催はどうあるべきか? という点だろう。2校が出場辞退となった。既に秋季大会が始まった地方もあるが、今後の感染状況次第では、来春センバツ中止の恐れがないとも言い切れない。この夏の経験を生かさないと、再び甲子園がない世代を生みかねない。

そもそも、医療体制が逼迫(ひっぱく)する中で全国大会を開催していいのか、疑問を持つ人は少なくない。その声に耳を閉ざすことなく、より安全な大会運営を追求しないといけない。2校が辞退した大会が終わり、あらためて、そう考えさせられた。

確かに、中止にすれば感染リスクはなくなる。だが、それは本当に最後の手段だ。3年間、正確には2年4、5カ月しかない球児にとって、安易な中止は酷過ぎる。10代の1年は大人の数年にも匹敵する貴重な時間だからだ。もちろん、開催が人命軽視とならないようにするのは大前提。主催者は異なる意見にも真摯(しんし)に向き合い、最適解を探し続けてほしい。人が動く以上、感染リスクは絶対に生じるのだから、それでもやる価値があることを示さないといけない。

その価値とは何か。甲子園にはさまざまな側面がある。部活動としての教育活動。上のステージを目指す選手の就職活動。大会開催に伴い、経済活動も派生する。見る者の心を豊かにする文化活動の面も大きい。1つに偏ることなく、バランスを保ちたい。その際、大事なのは、何が主体かを忘れないこと。言うまでもなく、選手たちが主体だ。かけがえのない人生の一時期を悔いなく過ごせる環境を整える。大人の責務である。未来の日本、そして世界を担う若者のために。

甲子園は、良くも、悪くも、高校生の競技でもっとも注目される大会となっている。それだけ、発信力を持つ。コロナ禍での大会はかくあるべきというメッセージを、世に訴える場となれる。【古川真弥】