自分もあの輪の中にいたら…中学女子日本一経験の日大鶴ヶ丘マネジャー石渡さんが目指した甲子園

  • 日大鶴ケ丘の3年生マネジャー3人が作成した「覇」の鶴文字(撮影・藤塚大輔)
  • 夏の大会に向けて選手たちには内緒で「覇」の鶴文字を作成する日大鶴ケ丘の3年生マネジャー・石渡さん、根本さん、塚原さん(左から)(撮影・藤塚大輔)

第26回全国高校女子硬式野球選手権大会の決勝(横浜隼人-開志学園)が2日午後4時から、甲子園球場で行われる。昨年に続き、甲子園球場での決勝開催は2度目となる。

今夏の第104回全国高校野球選手権西東京大会で8強入りした日大鶴ケ丘のマネジャー・石渡(いしわた)美穂さん(3年)は、中学時代に女子野球で日本一に輝いた。高校入学後はマネジャーを務めてきたが、昨夏の女子野球決勝は、うらやましさも感じたという。それでも自分で選んだ道を、最後までやり切った。

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石渡さんが野球を始めたきっかけは、2歳上の兄健斗さんだった。

「兄が家の駐車場でキャッチボールをしていると、私もその場に行ってなぜか交ぜてもらったり、一緒に練習に着いて行ったりしていました」

気が付くと、自分もグラブを手にし、ボールを投げていた。小学1年生から地元のチームで野球に打ち込んだ。

中学生になると、女子の軟式野球チーム・城南鵬翔クラブ(東京都大田区)で汗を流した。

「女子って、結構盛り上がるんですよ」

1球ごとに歓声が上がる女子チームに魅力を感じ、楽しく野球を続けていた。

中学3年時には全国大会(第30回全日本女子軟式野球選手権)に出場し、決勝へ進出した。「2番・右翼」の石渡さんは、日本一をかけた大舞台で自慢のバッティングを見せつけた。

「ファウルですけど、江戸川球場のスタンドに入れました」

両翼90メートルの江戸川球場での特大ファウル。今も笑いながら話すことができる思い出の1つだ。

チームはその試合で勝利し、見事日本一に輝いた。仲間と喜びをかみしめた。

しかし、高校で野球を続けようとは思わなかった。それはプレーをしていた時から、保護者や友人の応援に勇気づけられていたからだ。「私も支える立場になってみたい」。プレーヤーから身を引き、夏の甲子園出場3度の日大鶴ケ丘で、新たにマネジャーを始めることにした。

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石渡さんが高校1年生の時には、国士舘の野球部だった兄が、20年夏の交流試合に出場した。当日は三塁側スタンドから、背番号20の兄の雄姿を応援した。

「ブルペンキャッチャーで出てきた時は、近くでずっと見守っていました」

甲子園を満喫しながら、もう1つ思ったことがあった。「チームの一員として立てたら、きっと楽しいだろうな」。高校でマネジャーに転身したのは、どうしても甲子園に行きたかったからだ。当時は1年後に、女子がこの舞台に立つとは、思ってもみなかった。

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昨年8月。高校女子硬式野球の決勝が、初めて甲子園球場で開催された。世間の注目も集まった。

石渡さんも、その様子をニュースで目にした。

「私が高校に入学する年は、女子が甲子園でプレーするということがなかったので。マネジャーじゃないと甲子園に行けないのかなって。(甲子園は)男子しか行けない場所だと思っていました」

憧れの地で白球を追う同世代の女子に、どうしても自分を重ね合わせてしまった。

「もし私も高校でプレーを続けていたら、きっと目指していただろうなって」

普段の部活動でも、うらやましさを感じることがあるという。悔しそうに笑いながら、こう言っていた。

「中に入って野球をやるのと、外で見るのとは全然違いますね。もし自分もあの輪の中にいたら、もっと盛り上がれるだろうな」

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自分で選んだマネジャー業は大変だった。

練習試合の時は朝4時半に家を出た。野球道具などの重い荷物を運ぶことは大変だった。夜遅くに家に帰ると、そのまま寝てしまうこともあった。

「キラキラした感じは一切ないです」

それでも、時には楽しい時間もあった。

6月中旬に3年生マネジャーの塚原優愛花さん、根本春花さんとともに作っていたのは、「覇」という鶴文字。昨年8月から、4608羽の鶴を折ってきた。

「部員には内緒ですからね」

3人は声をそろえながら、和やかに準備を進めていた。

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迎えた夏の大会。日大鶴ケ丘スタンドには、いつも「覇」の鶴文字が飾られていた。女子マネジャー3人は、1試合ずつ交代しながら記録員としてベンチ入り。石渡さんは5回戦(対昭和)で、初めてベンチに入った。

ナインがヒットを打つたびに、大きく手をたたいた。本塁に生還した仲間に手を差し出すと、選手も笑顔でハイタッチを交わしていた。

「もし自分もあの輪の中にいたら、もっと盛り上がれるだろうな」

大会前の言葉を覆すように、ともに勝利を目指す姿が、そこにはあった。

ユニホーム姿ではなくても、石渡さんはチームを支え続けた。自分が選んだ道で、自分なりの輝きを放っていた。【藤塚大輔】