エース中崎が最後に意地をみせた。準決勝の青森山田戦では先発で4回2失点。試合後は取材エリアで1人、悔し涙を流していた。この日は9回無失点でバトンをつないだ。「準決勝で悔しい思いをして、仲間に助けられた。日本一のエースにしてくれてありがとうと伝えたいです」。左腕2枚看板が鉄壁のリレーをつなぎ、初優勝へと導いた。
「このやべえ環境で下克上を起こしてやりたい」。小牧憲継監督(41)の思いが結実した。強豪校では異例の狭さのグラウンドで、鍛錬を積んできた。右翼60メートル、左翼70メートルほどで、チーム練習はほとんどできない。右打ちの指揮官は「右と左では打球が違う」と両打ちでノックを行い、より実戦に近い形で打球を打つ工夫を重ね守備力を磨いた。
センバツの青森山田戦の敗戦が転機となった。全員が個々の能力で劣っていることを体感。藤本主将の「チームで結果を残したい」との思いを聞いた指揮官は「個人8割チーム2割」だった練習の割合を「個人6割チーム4割」に変更。週1のペースで例年よりも近隣の球場を借りる機会を増やし、ケース打撃や連係プレーなどチーム練習の量を増加。組織力を強めた。
「練習の虫軍団」だった。指揮官は「競い合うように練習場所を確保したり、自発的に練習していた」と毎日のように午後10時30分の点呼ギリギリまで練習を実施。割合が減った個人練習の時間を自主練習で補った。大砲不在で低反発バット導入前から指揮官が「低反発打線」と自虐した打線は「低く強い打球を打つ」ことを徹底させ、新チーム発足から「公式戦0本塁打」で頂点に登り詰めた。
韓国にルーツを持つ学校で、校歌は韓国語。過去には寮や学校に「爆破予告」の電話が鳴ったことや、他校の選手から心ない声を聞いたOBもいた。それでも「小牧さんのもとで野球がやりたい」と集った選手たちが一丸となり、堂々の日本一に輝いた。【古財稜明】
▽京都国際・金本(10回に先制の押し出し四球を選び決勝点)「1点だけじゃ足りない。『次も頼むぞ』とガッツポーズした。(優勝の瞬間は)一瞬で、この仲間でやって来てよかったという気持ちになった」
◆京都国際 前身は1947年(昭22)開校の京都朝鮮中。京都韓国学園時代の99年に創部の野球部は、初の外国人学校硬式チームとして日本高野連に加盟。。2004年に日本の教育課程を学ぶ私立校として現校名に変更された。男女共学。生徒数138人(野球部員61人)。甲子園出場は今回で夏3度目(春は2度)。22年春は新型コロナウイルスの集団感染のため、開幕前日に出場を辞退した。主なOBは森下瑠大(DeNA)中川勇斗(阪神)曽根海成(広島)ら。学校所在地は、京都市東山区今熊野本多山町1。白承桓校長。
▽DeNA森下(21年夏、2年生エースとして甲子園ベスト4進出)「本当に感動しました。元気をたくさんもらいました。とても誇りに思います。心ない言葉も一部あり、悲しい気持ちになることもありましたが、選手たちが頑張ってる姿を見て来た者として、その頑張りが報われて良かったなと思います」
▽京都国際・岩淵雄太コーチ(32)(就任後約11年での初優勝に)「子供らの頑張りもあって、今までの先輩方が引き継いでくれたバトンをちゃんと繋げられて本当に良かった。夢のよう」
▽京都成章時代の恩師・奥本保昭氏(64=現花園大助監督)「僕も(98年)夏に決勝に行ったので、『早く先生に追いつけるように』と話していたが、日本一の甲子園優勝監督として追い越してくれてうれしい」。
▽京都国際・宮村貴大部長(41)(小牧監督と京都成章野球部時代の同期で、投手コーチ兼任)「チーム全体として勝ち上がれたのは一番うれしい」
◆優勝ブランク 夏の大会で京都勢の優勝は56年平安以来68年ぶり5度目。68年ぶりは都道府県別の夏優勝ブランクで東京都の60年ぶり(1916年慶応普通部→76年桜美林)を上回る最長。
◆6勝V 京都国際は1回戦から6試合を戦って優勝。夏の大会で6勝しての優勝は19年履正社以来。コロナ禍のため中止となった20年の後、優勝した21年智弁和歌山、22年仙台育英、23年慶応は2回戦からの出場だった。
【甲子園】京都国際が初優勝 決勝史上初のタイブレークで関東第一破る/詳細