本人にそのつもりはなかったようだが、大人数の警察員に囲まれた末に現行犯逮捕される。その事件後の死だから、ずっと「自殺説」がつきまとったのだ。
そのミステリーを解いたのが、12月に出版された『村田兆治という生き方』(ベースボール・マガジン社、三浦基裕著)と題した1冊の本だ。
“ミスター・ロッテ”の村田は「マサカリ投法」で人気を集め、通算215勝を挙げた。日本球界初の右肘のトミー・ジョン手術(じん帯再建手術)を受けて復活。「サンデー兆治」は社会現象になった。
沢村賞の選考委員も務めるほどの一流だった。著者の三浦は日刊スポーツ退社後、佐渡市長を務めた。著書では村田の現役引退をスクープした際のやりとりをつづっている。
「どうした? 三浦」
「はっきり言います。兆治さんの引退を書くつもりで来ました」
「そうか。お前、書く自信はあるか?」
「あるからここにいます」
「わかった。ならあとはお前に任せる。じゃあな」
翌朝、日刊スポーツ1面で「村田兆治引退」と大見出しのついた新聞を持参した。それを読み終えた村田は「よし、これでいいよ。おつかれさんだったな」とねぎらったらしい。
その後の三浦は、村田が取り組んだ「全国離島交流中学生野球大会」、いわゆる“離島甲子園”の運営を手伝う。事件後の村田は「女性検査員には心から謝るしかない」とした上で、信頼を寄せる三浦に打ち明ける。
「子どもたちには、これだけは信じてもらいたいんだよ。村田兆治という人間は、決して暴力行為を働かないということをね。交流してきたたくさんの子どもたちにね。あらためて村田兆治という男を信じてもらうために、やれることはなんでもする。三浦、子どもたちに信じてもらうには、そうするしかないだろう?」
生真面目で、一本気で、曲がったことが大嫌いな性格を多少は知っているだけに、今回の著書を読破して、今まで引っかかっていたものがふに落ちた。
村田は三浦に投げかける。一時代を築いた大投手には、球界の指針として気付かされることが多い。
「今の子どもたちは、ほとんどが、ランナーがいない場面でもノーワインドアップかセットポジションで投げるんだよ。試合に勝つために、どうしてもコントロール重視の指導になってしまうんだろうけど、せめてこの年代までは大きく振りかぶって、思いっきり投げ込んでほしいんだよ。それが将来、大きく成長させる力になるんだから。なんか子どものころからこぢんまりしてしまうのは、寂しくてしょうがないなあ」
ずいぶん前だが、拙者に村田の逸話をこっそり教えてくれたのは、フリージャーナリストの鉄矢多美子だった。ロッテ球団職員で、場内アナウンス係だった経歴の持ち主。村田家ともツー・カーだ。
日本でもっとも「キューバ野球」に精通した。南米のベースボールに食い込んだ人で、プロ・アマ通じて鉄矢の右にでる者はいない。リスペクトする彼女は、村田の人柄がにじむ裏話を話してくれた。
村田がユニホームを脱ぐ引退試合が映し出されるテレビを、たまたま高倉健が行きつけの理髪店で見ていたらしい。投げる姿に感動した名優は居ても立ってもいられなかった。
雨降りの中、東京・成城で村田の自宅を探しあてるが、残念ながら留守だった。高倉も兆治の生きざまになにかを感じたのだろう。花かごと手紙を、村田の愛車の上にそっと置いて立ち去った。
拙者も大学時代に健さんのファンクラブに入った時期があったから、鉄矢からもらったエピソードを、もっと感動的に表現した原稿にしたいが、なかなか出来ないのがもどかしい。
パ・リーグを支え、球界に貢献し、“人生先発完投”といったマサカリ男の在りし日を思い出す。そういえば佐渡にある名旅館の女将(おかみ)から電話が入った。ちょっと離島にわたってみようと、そんな気分にもなった。(敬称略)【寺尾博和】