秋田商サッカー部の母、命を削った願い「私を選手権に連れてって」
雲1つない青空だった。
昨年12月29日、埼玉・熊谷。時刻は午後4時を回っていた。帰宅を促すアナウンス。スタンドは閑散としてきた。そこにポツリと立ち尽くす女性。誰もいないピッチを見つめていた。
目からこぼれる滴。そっと差し込む夕日が、ぬれた頬を優しく包み込んだ。顔をクシャクシャにして、言葉を紡いだ。
「ここに連れてきてくれた寮生たちとチームの皆さんに感謝です」
赤いTシャツの下に着込んだ厚手の衣類。全摘出手術を受けた左胸を温かく覆っていた。ニット帽からはみ出た髪の毛は、ウィッグだった。
★普通の主婦が立ち上がる
物語は、何年も前にさかのぼる。これは、秋田に住む赤坂郁子さん(40)と、その家族の話。夫二郎さん(40)は柔道整復師であり、介護福祉士でもあり、秋田市内の「てらうち整骨院」を営む院長。2人は、4人の子宝に恵まれた。
大家族のママは家事、育児の傍ら、整骨院をサポートする日々。患者と対話を重ねていくうち、県外から越境入学してきた秋田商サッカー部の選手の存在を知った。
高校生たちは、食への意識が低かった。好き嫌いが多く、偏りがち。小腹が空けばカップ麺をすすり、コンビニで揚げ物ばかり買う現状を知った。
当時は寮がなかった。郁子さんは「治療以外で、何かサポートしてあげたい。サッカーだけに集中させてあげたい」。夫の返事も待たず、「そういう環境をつくってしまえばいい」。普通の主婦が、寮を新設するために立ち上がった。
縁もゆかりもないのに。郁子さんはおろか、身内にも秋田商出身者はいない。4人の子ども野球、ラグビー…。サッカー経験者はいない。
共通項は、秋田出身というだけ。ただ、秋田商サッカー部を応援したかった。「本当に関係ないんですけどね(笑い)。伝統を守って、走り続ける姿が好きだった」。
利益など、度外視だった。お金はいくら掛かっても、関係なかった。貯金を切り崩し、資金調達に駆け回った。何度も、何度も頭を下げた。だって「苦しむ子どもたちを見たくなかったから」。
栄養満点のご飯を提供するため、スポーツフードスペシャリストの資格を取得。事業計画書とにらめっこ。「後先なんて考えてなかった」。走り始めると、偶然が舞い込んだ。
整骨院と道を挟んだ場所に中古物件を発見。2世帯住宅だった家を改装。20年4月、秋田商サッカー部のための「てらうち整骨院スポーツ寮」が完成した。着想から約3年後のことだった。
寮では異例ともいえる1日3食付き、もちろん治療も。大雪の日は、自転車通学が禁止となる。寮母は、送迎にも車を走らせた。
人はこれほど〝他人〟のために尽くせるのか―。
郁子さんは「いえいえ、普通ですよ」と言った。しばらくすると、考え込んだ。「話そうか迷ったんですけど。本当に、これからという時。さあ、これからという時ですよ」―――。
何故? 聖母のような人にー。
★突然の宣告
突然だった。昨夏。入浴中のこと。左脇に違和感を覚えた。腫れていた。ピンポン球サイズ。病院に向かった。
「頭が真っ白になった」。7月30日。乳がんだと告知された。
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リンパ節への転移があった。内臓への転移こそ免れたが「死への恐怖、自分の人生はこれで終わりなのかと心身共に落ち込みました」。夫と、ただただ泣いた。抱きしめ合った。落ち着くのは一瞬。不安がすぐ襲い掛かった。
不眠、食欲不振。体はみるみるうちに、やせ細っていった。「当たり前の日々も失ってしまうのか。生きた心地がしなかった」。それまで、かぜを引いたこともなかったくらいだから。
「家族や寮生たちの生活はどうなる?」
絶望の淵の中、家族は励まし続けてくれた。寮生は、おいしそうにご飯を食べ、屈託のない笑顔を並べた。
「彼らを支えるのは自分しかいない。選手権に行くという寮生の目標が、私の目標になりました」
★脱ぎ捨てたウィッグ
苦しい抗がん剤の治療が始まった。すぐに髪は抜け落ち始めた。
「落ち武者みたいでした」と笑えるようになったが、当時はウィッグで隠していた。顔を上げると、目の前には一心不乱にサッカーに打ち込む寮生の姿があった。黙ってはいられなかった。
時が来た。
告知から2週間後。寮に住む部員11人へ病気の事実を告げた。
動揺する寮生を見て思った。「変わっていく私の姿に、不安を与えるわけにはいかない」。乳がんを知り、約1カ月後。昨年9月4日。寮生を集めた。
「みんなウィッグに気づいてなくて。これはシメシメと。笑ったり、びっくりするかなって」。
勢いよくウィッグを外した。ひそかに丸刈りにしていた。笑いに変えるつもりだったが、子どもたちは言葉を失っていた。「ショックだったと思います」。太陽のような郁子さんは、すぐに動いた。「頭は何でも笑いのネタにしました」。ウィッグを寮生の頭につけたりもした。
丸刈りにしたのは、寮生のためだったという。秋田商サッカー部は、昨年4月から伝統の丸刈りが廃止となった。頭髪自由化となったが、多くの選手はバリカンを手放さなかった。郁子さんは「みんなと気持ちは一緒だよって」と、自ら体を張った。
寮生で守護神のGK佐藤秀人(3年)も、髪を伸ばすことはなかった。「秋田商に入る前から、3年間は丸刈りでいようと思っていました」と言うにとどめたが、郁子さんへの思いもにじみ出ていた。
「昔は門限破ったり、やんちゃして怒られて、迷惑を掛けてばかりだった。そんな寮母さんが、やつれていて。驚きました」。郁子さんは「私が髪が生えないから、いろいろ思ってやってくれたのかな」とうれしそうだった。
★「絶対、寮母さんを選手権に連れて行く」
自らの命をかけて、誰かのために闘う女性。秋田商サッカー部の小林克監督(48)もその現実を知り、黙ってはいられなかった。
選手権の秋田県予選前。寮生11人を集めた。「お前たちが、寮母さんを選手権に連れて行くことが一番の薬だから」。それ以上の言葉は、要らなかった。GK佐藤は「絶対、寮母さんを選手権に連れて行く」。皆、気持ちは1つだった。
古豪として知られる秋田商サッカー部も、前回2020年度の第99回大会は、全国の舞台に進めなかった。県予選の準々決勝(西目高戦)で、PK戦の末に敗れた。
だからこそ、郁子さんは寮生とのグループLINE(ライン)にメッセージを残した。昨年10月20日。第100回大会の県予選準決勝前夜に。相手は、またしても西目高だったから。
「明日はいよいよ準決勝。当然圧勝でみんなの強さを見せつけてほしい。がんになってから、どんなに副作用辛くても、皆が腹空かせて待ってると思えば、頑張れた。皆からパワーもらって、笑うことが出来た。去年の悔しい思い、悔いのないようにやりきって。そして私を選手権に連れてって。お願いします」
恥ずかしそうに言った。「私をスキーに連れてってじゃないですけどね(笑い)」。昭和の恋愛映画の名作を引き合いに出して笑った。次々と「頑張ります」の返事。言葉だけではなかった。
子どもたちは、2―0でリベンジを果たした。そして、決勝(対明桜)に進み、PK戦の末に勝利。全国切符を寮母さんに渡した。郁子さんは「私は彼らの夢に便乗しただけですが、こんなかっこいいやつらいないでしょ」。言葉にならないくらい、うれしかった。
★地獄の日々を救ってくれたのは
「絶対に選手権に応援しに行く」。高ぶる熱い気持ち。そんな中、手術の日は迫っていた。約束を果たしてから約2カ月後。昨年12月13日。午後から、オペは始まった。
左胸の全摘出。弱音を吐きたくなるはずなのに、術後も子どもたちへの熱い気持ちは冷めなかった。病院のベッドからも「寮生のサポートを再開したい」。いつも、脳裏にあった。絶対安静から、徐々にリハビリを重ねた。
入院予定は1週間から10日程度だったが、6日で退院。気合が違った。翌日には、寮母として仕事を再開。通院しながら、体調を整えていた。
手術から約2週間。退院してから10日後のこと。医者から「無理は禁物」と言われながらも、夫と車を走らせた。
連日、氷点下が続く秋田から埼玉・熊谷まで。全国高校サッカー選手権1回戦。有言実行だった。応援に来た。
強豪同士の対決。1点に泣いた。1点が遠かった。秋田商は、東福岡に0―1で惜敗した。寮生との選手権は1回戦で終わってしまった。ただ、充実した時間だった。子どもたちは、私を選手権に連れて来てくれた。寮母は、過酷な手術を乗り越え、選手権にやって来た。
郁子さんは「手術後も病に対しての達成感はなく、やっと病を乗り越えられたと実感できたのは、ピッチに立つ寮生たちを見た時でした」。試合後も、ピッチを見つめていた。その余韻をかみしめるように。
「地獄の様な日々から救ってくれたのは家族、寮生たちでした」
今も2週間に1回は、定期的に病院で治療する日々。ただ、告知を受けた日を思えば、つらくない。いつも側には、大好きな家族がいるから。
愛する子どもたち、夫。そして、かわいくて仕方がない寮生たち。郁子さんは家族に包まれている。「朝だよ~。ご飯出来たよ~」。今日も元気な声が、寮に響いている。【栗田尚樹】