【天皇杯】71大会ぶり関西対決の決勝 前回の試合内容と当時のサッカー環境とは?

  • G大阪対神戸 天皇杯準優勝したG大阪(撮影・宮地輝)

<天皇杯:神戸1-0G大阪>◇23日◇決勝◇国立競技場

71大会ぶりとなる関西勢同士の決勝は、前回と同じく兵庫が大阪を破る結果となった

53年に行われた33回大会の決勝では、全関学(兵庫)と大阪クラブ(大阪)が対戦した。全関学は関学大の現役選手とOBにより構成されたチームで、当時すでに3度の優勝歴のあった強豪。

一方の大阪クラブは、当時では珍しい技術重視だった明星高のOBが51年に設立。正式名を「大阪サッカークラブ」といい、日本で初めて「サッカー」の名をを冠したチームとされている。こちらも31回大会から3度続けて決勝に進んだ力のあるチームだった。

関学大サッカー部70年史によると、試合は序盤から全関学ペース。前半35分と38分に得点し、後半14分にはFW木村現のハットトリックとなる3点目。同20分にも追加点を決めて4-0とした。しかし残り10分から大阪クラブのゴールラッシュが始まる。同35分に1点を返すと、同36分、40分、44分と次々にネットを揺らして、わずかな時間に同点に追い付いた。

最終的には延長後半1分に日本代表FW鴇田(ときた)正憲が決めて全関学が勝ちきることになったが、壮絶なファイナルだった。

当時は実業団としての出場が少なく、この試合では当時無類の強さを誇った田辺製薬の鴇田と賀川太郎(大阪クラブ)いう日本代表のゴールデンコンビが別チームでぶつかる珍しさもあった中で、最後は鴇田の全関学に軍配が上がった。

試合展開こそ違ったものの、1点が勝負を分ける戦いは当時と変わらず。実力チーム同士のファイナルは、次の関西対決も楽しみにさせるものとなった。

この試合に大阪クラブのメンバーとして出場した賀川は、当時の日本を代表する名手だった。社員として所属した田辺製薬では中心選手として黄金時代を築き、50~56年には全日本実業団選手権6連覇を含む94戦93勝1分けという圧倒的な記録に貢献。日本サッカー協会(JFA)の殿堂入りもしている実力者でありながら「学徒出陣」で太平洋戦争も経験。息子の進太郎さんによると「海軍で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に乗って訓練を積んで、特攻隊の順番待ちもしていた」という。

終戦後は田辺製薬で営業としてフルタイムで働きながら、週末に選手として試合に出場する多忙な日々を送った。合間に息子とボールを蹴ることも楽しんだというテクニシャンは、心からサッカーを心から愛し、没頭した。

田辺製薬から子会社の社長として岡山に赴任した際には、まずサッカー部を結成。岡山県3部リーグから始まったチームは、瞬く間に同1部に昇格を果たした。加齢により1部リーグでの出番が減ってくると、セカンドチームを作って、中心選手としてのプレーを続けたという。

現在のJリーガーとは大きく異なる姿だが、仕事にもサッカーにも全力で打ち込む選手たちが、天皇杯の歴史を刻んできた。

33回大会試合がゴールデンウイーク期間に行われているのは、当時の選手は所属先でのフルタイム勤務が基本だったため。仕事への影響が抑えられる期間に集中開催するため、大会期間が53年5月2~5日が選ばれた。

余談だが、実業団でサッカー部の時短勤務が導入されるのは、ここから約10年が経過したあたりからだった。同じ関西を拠点にしていたヤンマーディーゼルが始まり。61年からヤンマーディーゼルに所属し、営業として仕事をしていたGK安達貞至(元ヴィッセル神戸社長)が「昼からやらせてもらいたいと交渉した」。そこで新たな動きが始まると、他スポーツも含めた全国の実業団チームに広まっていったという。

今回は71大会ぶりの関西対決ということで当時の試合や取り巻く環境について探ったが、見えてきたのは今と変わらぬ選手の熱さ。プレー環境や待遇には大きな差があるものの、ピッチで戦う選手の熱量は、当時も今も変わらないものだった。【永田淳】