雲1つない大手町の空と同じ青いユニホームを着た選手の手のひらが、次々に伸びた。少し遠慮がちにその輪の中心に進んだ両角監督を支え、5回も宙に舞わせた。15キロ痩せて69キロとなった指揮官に、選手たちは「胴上げしてほしいんだろうな」と思い続け、それを実現させた。「気持ちいい。最高!」と笑う姿に、秋以降に「共同作業」を重ねたみなで抱き合った。
冠雪の芦ノ湖を2番手で走りだした。堅実に箱根の山を駆け降りた6区の中島。7区の阪口が大学がある地元の湘南で大声援を受けて差を縮め、創部60年目での悲願へ突き進む。記録的な激走で8区の小松が首位を奪い、主将の9区湊谷がたすきをつなぐ。青学大の5連覇への猛追を快走で寄せつけず、アンカー郡司が「人生初のゴールテープは幸せ!」と飛び込み、少し前までは敵視すらした監督を担ぎ上げた。
出場46回目。むしろ短距離で有名な陸上部に、栄冠は遠かった。佐藤悠基や村沢明伸らを輩出も優勝争いに絡めない。11年に佐久長聖高から高校NO・1の両角監督を招くも、13年大会は予選落ちで40年連続出場が途切れる苦境。スピード力育成に定評があるが、世界で戦える選手を目指す育成方針は五輪種目ではない駅伝には向かない現実もあった。今年も…。転機は1つの「けんか腰」だった。
「聞いてくださいよ!」。3大駅伝初戦、10月の出雲駅伝で3位に敗れた後、4年の三上が首脳陣に食ってかかった。結果が出ない。夏の長野合宿では不整地を多く走り故障者が続出。集団走が多く、量も過酷だった。不満は一体感を奪った。我慢の限度を超え、直談判となった。
「練習方法を変えて」と訴えた。ある選手が「殴って辞めたい」と漏らすほど、厳しい言動、練習が特徴だった監督。それが驚きながらも、受け入れてくれた。健康目的で8月から走り込みを始め、走るつらさを久々に痛感していた偶然も理解の一助に。次第に「お前はどう思う?」と聞かれるようになった。個性的で主張が強い「黄金世代」の3年生を軸に、各自の要望を伝え、信じてメニューを組んでくれた。「俺が故障したから、お前たちは故障しないよ」。箱根前に左足を痛めると、冗談も飛んだ。急激に歩み寄っていた。
昭和から平成の終わりへ。ついに頂点に押し上げたのは、壁をはらい、信じ合うことだった。「監督! 監督!」。胴上げに誘った声を来年も。共に走り、共に戦う。【阿部健吾】