実業団男子の駅伝日本一を決めるニューイヤー駅伝が15年1月1日、群馬県庁前を発着する7区間100キロで行われる。ニッカンスポーツ・コムではかつて実業団のNEC陸上競技部に所属した俳優の和田正人(35)にインタビューを実施した。和田は同陸上競技部が03年に廃部したことに伴い俳優に転向。昨年放送されたNHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」のげんちゃんこと泉源太や、今春放送されたTBS系「ルーズヴェルト・ゲーム」で北大路犬彦を演じるなど注目の俳優だ。前編は和田が陸上を始めたきっかけや、箱根駅伝を目指した日大時代のことを聞いた。
--陸上を始めたきっかけを教えてください
小さい頃から足が速くて、校内のマラソン大会でも常に上位に入っていました。高知・土佐町中学に進学した時にソフトボール部と掛け持ちで駅伝部に入ったことが本格的に陸上を始めたきっかけです。駅伝部はいろんな部からの寄せ集めでしたけどね。ソフトボールも結構強い学校だったんですが、ソフトよりも陸上で芽が出たんですね。
--それは全国中学駅伝を目指すための駅伝部だったのですか
そうですね。僕が中2の時に第1回全国中学駅伝が行われました。僕たちは県大会で負けたんですが、当時顧問だった先生が熱心だったこともあって熊本まで全国大会を見に行きましたよ。
--高校進学の際に高知工を選んだ理由は
高知農を強くした野中三徳先生(日大出、箱根駅伝7区の区間記録保持者)が高知工に転勤されてすぐの頃で、先生から「高知工業で全国へ行こう」と熱心に誘われて、高知工への進学を決めました。
--高校時代の練習は厳しかったですか
中学までは「やりたいこと。楽しいこと」でしたが、高校では「自分の人生に関わっていくくらいの大きな出来事のひとつ」でした。陸上に費やす時間も増え、野中先生からは「陸上は24時間が練習だ。寝る時間、食べる時間も練習だ」と言われ続けました。僕、真面目でしたし、先生は厳しかったので常に陸上のことを考えてましたね。
--その努力が実って高2、高3の時に全国高校駅伝に出場されるわけですね
※高2では各校のエースが走る1区(10キロ)で31分39秒の区間36位、高3では4区(8・0875キロ)で25分2秒の区間36位。
高2で都大路を走ったのですが、高知工も39年ぶり(6回目)の久々の全国大会への出場でした。当時は四国の中でも5000メートルでかなり上位に位置していて、インターハイこそ出ていませんでしたが、全国の舞台で自分を試せるいいチャンスだと思って走りました。でも1区を走って惨敗。全然走れませんでしたねー。「全国ってこんなにレベル高いんだ」と実感しました。
高3の時はケガでろくに練習が出来ず、思うように走れなかったですね。高校駅伝にはいい思い出がないのですが、今考えると高知のレベル自体が低かったので、僕自身の走りもあの程度だったのかなと思います。でも高校駅伝の時の走りで、当時の日大の監督が可能性を感じてくれたというのがあるし、さらに厳しい環境に自分の身を置けばもっと記録は伸びると思って日大への進学を決めました。
--日大では箱根駅伝を目指した練習が始まるわけですね。箱根駅伝に出たいという気持ちは小さい頃から持っていたのですか
中学の時からテレビで箱根駅伝は見ていました。そして箱根駅伝を走りたいという気持ちもありましたが、大学のレベルが分からないし、1年目から走れるなんて思ってはいませんでした。ただ大学に入った時に、大学の同期のヤツらの中で1番にならないといけないとか、先輩にも勝って(箱根を走れる)10人のメンバーに入らなきゃいけないと思うようになって、初めて具体的に箱根駅伝を走りたいという気持ちが強くなりましたね。
--チームメイトに勝つために心掛けた事はありましたか
大学に入った段階では同期入学の中で一番記録は悪かったんです。インターハイも出ていませんし。ただなんとなくですが、同じ環境で同じ釜の飯を食う同じチームのヤツらには、今までどおりの努力をしていけば勝てると思ってました。実際、入学時には高校時代に実績のあった選手に負けていましたが、夏を越える頃には肩を並べて、箱根駅伝の14人のメンバーにも入りましたからね(当時の日大の1年生でのメンバー入りは和田を含め3人だけ)。とにかく負けず嫌いで、陸上に対しては真摯に取り組むという努力は怠りませんでした。ケガをしないように努めて、与えられたメニューはしっかりこなすという当たり前の事をし、とにかく陸上に没頭しました。大学に入るといろんな誘惑があって、ダメになっていく選手はいますからね。特に1年の時は寮生活に慣れるのも大変でしたし、勉強もやらなければいけないし、遊ぶ時間はなかったですね。
--高校と大学の陸上の違いは何ですか
大学に入って練習の質も上がっているし、走る距離も増えたのですが、気持ちの面では高校時代よりもずっと楽でした。高校の時に野中先生から厳しい指導を受け「目標を達成するためにはクソ真面目に取り組め」と言われていました。なので練習しすぎてケガも多かったですね。
しかし大学では、コーチだった西さん(弘美=現明大駅伝監督)も厳しくなかったですし、もちろん練習メニューはしっかり組んでくれるのですが、精神的に追い込まれるようなことはなかったですね。「(大学は)こんなに自主性を重んじて練習するんだ」と感じてました。非常にのびのびとやれましたね。だから僕、大学で伸びたんだと思います。僕は“大学でデビューした選手”ですからね。