【高橋繁浩の目】広がった世界との差…成功してきた選考、強化の見直し必要な時期
<高橋繁浩の目>
今こそ、水泳界の改革をー。元競泳五輪代表で開催中の水泳世界選手権競泳競技でテレビ解説も務めた高橋繁浩氏(61=中京大教授)は、危機感を隠さず訴えた。
メダル4個を獲得したものの、記録は低調。新型コロナの影響もあって、世界との差は広がった。過去20年間世界で活躍してきた水泳ニッポンは、転換期を迎えている。
◇ ◇ ◇
メダル数は4個で何とか帳尻を合わせた形になったが、日本チームにかつての強さはない。大会前にも、メダルは瀬戸と本多ぐらい。世界と日本の状況を比べて、厳しい戦いになるのは分かっていた。ただ、その差は想像以上に大きかった。
急きょ決まった大会で、何人かのトップ選手は欠場。ロシアは出場停止だし、オーストラリアも7月の英連邦大会に専念して何人かの中心選手は参加していない。種目によってはもっと上位に入れたと思うが、結果的としてその力はなかった。
長引く新型コロナの影響は大きい。国際試合が次々中止になり、海外の強豪とのレースは激減。世界のトップを「体感」する機会が減った。欧州内は感染収束と同時にレースも再開された。しかし、日本が参加するにはハードルが高かった。
タイムは分かっても、一緒に泳ぐのとは違う。机上では「1秒」でも、緊張感のあるレースでライバルの起こした波を受けての「1秒」は別物。一緒に泳いでこそ経験になる。高いレベルで競り合ってきた欧州勢は、今大会で好結果を残した。選手層の厚い米国やオーストラリアは国内争いもハイレベルだ。国内の争いを続けた日本は、世界から置いていかれた。
海外遠征ができなかったのも響いた。長期の合宿も限られるから、日本の武器である「チーム作り」もできない。新型コロナによって失われた2年間で、日本と世界の差は大きく広がった。
もちろん、花車や水沼のメダルは素晴らしかった。競り合って手にしたメダル。何よりも自信になっただろう。ただ、金メダルとなると現実的ではない。誰よりも選手やコーチ陣が世界との距離を痛感したはず。それが分かっただけでも、出場した価値はある。
今大会では中国や韓国も元気だった。中国はもちろん、韓国も簡単に勝てる相手ではない。アジア大会が延期されたことは残念。もはやアジアでも勝てない状況が来つつある。それを知って刺激を受けるためにも、アジア大会は重要だった。
チームの雰囲気は変わった。かつては「世界で勝ってやろう」「金メダルをとろう」とギラギラした選手が多かった。平泳ぎの北島康介はもちろん、バタフライの山本貴司、松田丈志、背泳ぎの入江陵介、個人メドレーの萩野公介や瀬戸大也も「世界で勝つ」という強い使命感があった。女子も寺川綾らが高い志でチームを引っ張った。
コーチたちも「金メダル」にこだわった。金メダリストを育てた指導者たちは、選手同様に「ギラギラ」していた。ところが、世代交代によって若いコーチも増えた。世界と戦う「経験」も、まだまだこれからだ。
ギラギラした選手が減って、経験不足のコーチが増えたのは仕方がないこと。今の日本のレベルでは簡単に「金メダル」とは言えないし、選手が勝たなければコーチも勝つ経験は積めない。ならば、強化の本筋を見直す時なのかもしれない。
この20年間、日本は厳しいタイムと条件を設定した選考方法で「戦える選手」だけを集めて戦ってきた、所属の垣根を越えた合宿を行い、チーム力を高めた。それが、五輪や世界選手権でのメダルラッシュを生んだ。選手の選考方法、強化策は成功してきた。
ただ、これから先も同様の方法がいいとは限らない。例えば選考会の時期。これまでは春に選考会を行い、代表合宿を経て再びピークを作って五輪や世界選手権に備えてきた。ただ、今回は自己ベストを出した選手がほとんどいないなど、調整がうまくいったとは思えない。米国のように直前に選考会を行い、その勢いのまま本番を迎える方がいいかもしれない。
選手選考も見直す時期だろう。全体にレベルが高く選手層も厚い時はいいが、今のレベルでは出場できる選手がいなくなる可能性もある。若い選手はもっと経験の場があっていい。年齢によって派遣標準記録に幅をもたせる方法もある。
トレーニング方法は日々進化している。新しい考え方も出てくる。選手やコーチ陣の意識も以前と同じとは限らない。強化の方法も、時代に応じて変わるべきだし、変わらないといけない。
来年の福岡世界選手権も、24年のパリ五輪も、日本のメダル獲得だけを考えたら厳しいのは間違いない。強化プランを変えても、すぐに結果が出るわけでもない。28年のロサンゼルス五輪、さらにその先も視野に今こそ見直しが必要。再び水泳ニッポンが輝くために、変革の時は迫っている。
◆高橋繁浩(たかはし・しげひろ)1961年(昭35)6月15日、滋賀県生まれ。愛知・中京高ー中京大。78年に男子200メートル平泳ぎで同年の世界ランク1位となったが、80年モスクワ五輪選考会で頭部が水没する泳法違反で失格。84年ロサンゼルス五輪後に引退も、国際水連のルール改正で水没が認められ復帰。88年ソウル五輪で自身の日本記録を10年ぶりに更新した。引退後は指導者、テレビ解説などで活躍。