「ガシャッ」という音が、観客がいないアリーナに響いた。

2017年11月9日午後4時12分、大阪市中央体育館。フィギュアスケートのグランプリシリーズ(GP)第4戦NHK杯の公式練習で、40分間の半ばを過ぎたあたりだった。黒いトレーニングウエアを着た羽生結弦がリンクに倒れた。

フィギュアの現場で聞く音ではない。記者はリンク近くの最前列に座っていたため、フェンスが影になって足元は見えなかった。すぐに同僚のカメラマンに駆け寄って、着氷の瞬間を連続写真で確認した。最高難度である4回転ルッツの失敗。右膝は内側に折れ曲がり、右足首の角度は不自然だった。右手をついて衝撃を和らげているが、ダメージは明らかだった。

羽生は1度はリンクを下りたが、3分後に戻ってきた。フリー「SEIMEI」の曲をかけてジャンプ抜きで滑り出した。右足を浮かせ、左足に体重をかける。時折動きを止めて右足首をさすった。もともとリンクで弱みをみせるようなタイプではない。曲かけが終わると練習を打ち切った。

18年2月の平昌五輪(オリンピック)まで3カ月。冬季五輪は100人以上の選手が出場する。それだけ人数がいれば、直前でけがや病気のアクシデントに見舞われる選手はいるもの。しかし、まさか五輪連覇を目指す羽生に降りかかるとは思わなかった。軽傷であるはずはなく、現場は緊迫したムードに包まれた。

羽生の負傷は「右足関節外側靱帯(じんたい)損傷」で絶対安静10日間、全治まで3~4週間と診断された。NHK杯は欠場。しかし羽生は「フリーだけでも」と途中出場を直訴し、周囲に止められた。日本スケート連盟を通じて、12月の全日本選手権出場を目指す考えを示したが、とても間に合うとは思えなかった。

五輪連覇に暗雲が垂れこめた。羽生が治療に専念する期間、ライバルたちは躍動した。18歳ネーサン・チェン(米国)と19歳宇野昌磨は12月のGPファイナル(名古屋)で競い合った。わずか0・50点差でチェンが優勝、宇野が2位の大接戦。得点源である4回転ジャンプはチェンが5種類、宇野が4種類を習得しており、五輪本番までにさらに飛躍する可能性があった。

ライバル2人が五輪本番さながらにしのぎを削った6日後、羽生はコメントを発表した。「当初の診断では3~4週間ほどで元に戻るということでしたが、通常の捻挫よりも治りが長引く靱帯(じんたい)も損傷していることがわかりました。いつから練習を再開できるかは、まだ決まっていません」。当初の目標だった全日本選手権は欠場。過去の実績が考慮されて、平昌五輪代表には選出された。しかし、五輪は連覇どころか、出場も危ぶまれた。

急ピッチの調整には負荷がかかる。もちろんけがが再発すれば、五輪を断念せざるをえない。綱渡りのような日々を乗り越えて、ベストパフォーマンスを発揮できるのか。何よりも負傷以来、一度も公の場に姿を見せていなかった。しかも、10月のロシア杯以来4カ月ぶりのぶっつけ本番が平昌五輪になる。一方でチェンと宇野は右肩上がりでもあった。

そのころ、羽生は一通の手紙を自室に飾っていた。1948年、52年と五輪を連覇したディック・バトン氏(米国)からの手紙だった。

「Enjoy the Oylmpic Experince.Relax+Have Fun!」

思うにまかせない治療とリハビリの日々。五輪連覇の先人から「リラックスして楽しめ」と伝えられた。

バトン氏は連覇を目指した52年オスロ五輪でプレッシャーから練習をしすぎて、本番でミスが出た。ダブルアクセル(2回転半ジャンプ)で両足着氷-。金メダルこそとったが、その記憶は半世紀以上たっても「悪い思い出」として胸に残る。自身の苦い経験を、66年ぶりに連覇を目指す23歳の五輪王者に伝えていた。

羽生にとってその手紙は道しるべだった。はやる気持ちを抑えて、復帰に向かった。

ただ、そんな羽生の状況は、なかなか把握できなかった。もし羽生が出場できても6位前後に入れば驚異的、尋常ではない勝負強さを発揮しても最高で銅メダルと予想していた。4回転ジャンプは4種類を習得していたが、けがの原因となったルッツ投入は厳しい。トーループ、サルコー、ループの3種類ではジャンプ構成で分が悪い。また、最大の武器である演技の高い質はキープできるのか。

年が明けて1月11日、羽生は「平昌五輪に向け、強い気持ちを持って日々、過ごしています。これからも努力を重ね、自身を超え続けたいと思います」とコメントしていた。決してあきらめていない。ただ開幕1週間前の2月2日には、最初の種目である団体戦を回避することが判明した。個人戦を前にして、最後の実戦機会も見送りになった。

やはり厳しい-。

正直に告白すれば、五輪班キャップとして、羽生の五輪連覇に対する取材の熱量が下がりかけていた。だが大会直前、同僚記者がメダルは厳しいとされる選手の事前取材に、必死で駆け回っている姿を見た。長い期間をかけて五輪連覇に備えてきたのに、最後で気を抜いてもいいのか。似たような状況で過去に何度も痛い目にあってきた。報じる側として「出るからには五輪連覇想定」で準備する以外に選択肢はない、と思い直した。

目が覚めるような言葉を聞いたのは、開幕3日前の2月6日だった。羽生を指導するブライアン・オーサーコーチが現地入り。本番会場で羽生の状態について説明した。1月上旬から本格的に氷上練習を再開したこと、ルッツを除く4回転ジャンプ3種類を跳んでいること、16日からの個人戦では100%になること。数々のメダリストを指導した名コーチは、半信半疑の報道陣を見回して、1語1語を区切るように言った。

「Do not underestimate」

記者は、その意味がわからなかった。東京本社の、英語が堪能な記者に翻訳を頼むと、こう伝えられた。

「結弦を過小評価するな。結弦を見くびるな」。

5日後の2月11日、羽生はついに現地入り。右足首負傷以来94日ぶりとなる公の場だった。

【偉大な先人の励まし受け/後編】残り2940文字

結弦を見くびるなよ-。

オーサーコーチの予言から5日後。午後4時58分、五輪の主役が平昌入りした。空港には報道陣、ファンら約200人が詰めかけた。日本連盟は到着取材を禁止する方針だったが、国内メディアを止めても、地元韓国を含めた海外メディアは止められない。14年ソチ五輪では浅田真央、金妍児の到着時に空港が大混乱になった。けが明けの羽生が押し寄せる群衆に巻き込まれたら-。そんな心配はすぐに吹き飛んだ。羽生は、屈強な8人のボディーガードに囲まれていた。

94日ぶりの公の場。肌は白く、顎のラインがやや細くなっていた。羽生は「自分にウソをつかないのであれば、2連覇したいという風に思っています。どの選手よりもピークまで持っていく伸びしろがたくさんある」と強い口調で言った。

エンジンを温めるように、ペースを上げていった。翌12日に最も得意な3回転半ジャンプを披露。4回転も13日にサルコー、トーループ、15日にループを着氷。GOE(出来栄え点)がつく跳躍だった。けがの原因となったルッツは封印も4回転ジャンプ3種類をこなした。

羽生の出番までに、ジャンプの高梨沙羅が銅、スピードスケートの小平奈緒は1000メートル銀と、まだ日本勢は金メダルがなかった。羽生は日本勢金1号がかかる重圧を問われて「特にないです。誰がとろうが、僕もとります」と即答した。

勝負の鍵は、フリーでの4回転ジャンプの構成だった。チェンは5種類、宇野は4種類が跳べる。羽生はルッツを除いた3種類だが「クリーンに跳べば絶対勝てる」。その上で高得点の4回転ループを投入するのかについて「うーん、あんまり言うことはないかな。作戦が大事」と、珍しく明言を避けていた。

2月16日午後1時48分、江陵アイスアリーナ。羽生がショートプログラム(SP)に臨んだ。静寂の中、冒頭の4回転サルコーに成功。その1本で観衆をぐっと引き込んだ。ジャンプのたびに爆発的な歓声が沸き起こる。最後のスピンを回る時は拍手に包まれていた。圧倒的な演技で111・68点を出して首位。羽生は、オーサーコーチと抱き合って「Coming back!」と言った。ぶっつけ本番で自身が持つSP世界最高まで1・04点に迫る内容で会場を熱狂させた。

その直後、五輪の怖さをまざまざと見せつけるシーンがあった。興奮冷めやらぬ会場に、4回転5種類を跳ぶチェンが登場した。冒頭の4回転ルッツに転倒。残り2本のジャンプも乱れた。まさかのジャンプ3本すべて失敗。最大のライバルと目された18歳は82・27点でSP17位。金メダルはおろか表彰台まで約20点差。「本当に何が起こったかわからない。すべてが正しいように見えたが、そこかしこに小さなミスが潜んでいた」とぼうぜんとした。

SPで、王者は自らの帰還を証明した。2位フェルナンデス(スペイン)と約4点差、3位宇野と約7点差、4位金博洋(中国)と約8点差をつけた。採点の目安として、10点差=4回転ジャンプ1本分にあたる。3カ月間の空白による暗雲を振り払って、世界最高さえも手が届く位置につけた。

次は五輪連覇がかかるフリー。演技時間はSPの2分40秒から4分30秒に伸びる。スタミナがより重要になってくる。その上で戦略上は、4回転ジャンプの構成がポイントになる。

羽生はSP終了時点でフリーの演技予定表に、4回転ループを含めて3種類を組み込んでいたが、演技当日の変更も可能。「明日の調子次第でジャンプ構成を決めたい」と、ぎりぎりまで熟考する考えを示した。

焦点は、4回転ループを跳ぶかどうか、だった。

羽生が持つ世界最高は、15年に出した合計330・43点(当時)。SP、フリーともに平昌五輪と同じプログラムで、当時の4回転はサルコー、トーループの2種類だった。3つめのループを投入すれば、五輪の舞台で、金メダル&世界最高の更新も視野に入る。

一方で五輪連覇優先で考えれば、4回転ループは必須ではなくなった。SPと同じように、GOE(出来栄え点)がつくジャンプが跳べれば、サルコー、トーループで十分に勝てる。何より最も警戒すべきチェンとは約30点差がついていた。4回転5種類を持ち、フリーで爆発力がある相手が10点差以内にいれば、ループは必要だっただろう。だが約30点は、さすがにセーフティーリードだった。金メダルを獲得するためなら、ループはいらない。

羽生の根っこは、チャレンジャーだといえる。14年ソチ五輪は19歳で五輪王者になった。当時、4回転ジャンプは1種類2本がベースで、2種類3本がMAXだった。

王者が新しいジャンプを習得すれば、追いつき、追い越そうとするライバルたちは得点源の4回転を追求していく流れになる。自分が勝ち続けるだけを考えれば、少なくとも羽生自身が「4回転時代」を加速させる必要はなかった。

それでも挑戦した。16年に世界で初めて4回転ループに成功。17年には4回転ルッツも習得した。王者が自らハードルを上げれば、競技全体のレベルも上がる。ソチからの4年間で4回転ジャンプは激増。チェンは「偉大なスケーターがこのゲームを変えた」と競技を進化させる先頭に立ってきた羽生をたたえている。

その性格を考えれば、4回転ループ挑戦は自然な流れとみられた。しかし23歳の王者はクレバーだった。

「勝たないと意味がない。何より、これからの人生でずっとつきまとう結果なので、大事に大事に結果を取りにいきました」

フリー当日の17日朝、4回転ループを演技予定表から外した。サルコー、トーループの2種類で、勝負に向かうことを決断した。

フリーの「SEIMEI」は、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明をモチーフにした「和」のプログラム。冒頭の4回転サルコーから流れに乗って、前半はパーフェクトだった。後半の4回転トーループは着氷が乱れて連続ジャンプにつなげなかった。最後のジャンプは3回転ルッツ。因縁の技は、空中で軸が傾き、着氷でつまったが、リンクに手をつくことは断固拒否。大歓声の中で演技を終えると勝利を確信して、右人さし指を高々と突き上げた。

317・85点。銀メダルの宇野に約11点差をつけた。本格練習わずか3週間、ぶっつけ本番で偉業を達成して「漫画の主人公にしては出来すぎ」と言った。「4回転サルコーもトーループもアクセルも、トリプルジャンプすべて、何年間もやってきたので覚えていてくれました」と右足首に感謝して、喜びの涙を流した。

驚異の復活劇は、66年ぶりの五輪連覇で完結した。

羽生は、平昌から帰国して、こう言った。

「実はバトンさんという方が僕にメッセージを送ってくださっていて。そのメッセージが『リラックス』だったり『五輪の経験を楽しめ』というものだったんです。彼は『練習しすぎていい演技ができなかった』と語っています。僕がけがをしないで万全でオリンピックに向かっていたら、そういう風になりえたんじゃないかなと思っています」

苦境でも、あきらめなかった。偉大な先人の励ましがあった。長引く治療の焦燥にも耐えた。そして自分とライバルの状況を冷静に分析して勝ちきった。「自分がいろんなものを犠牲にして頑張ってきたごほうび。自分の人生のうちで誇れる結果」。平昌五輪での日本勢金1号。それは1924年に開催された第1回シャモニー大会(フランス)から数えて、冬季五輪通算1000個目の金メダルでもあった。

【益田一弘】