スノーボード男子ハーフパイプの平野歩夢は平昌の空を思いのままに舞った。
連続4回転に成功。2018年平昌五輪(オリンピック)へ作り上げてきた究極の連続技を、その大舞台で完璧にやり遂げた。その過程では命の危険もあった。4年前のソチ大会に続く、2大会連続の銀メダル。結果だけ見れば同じだが、その重みはまったく違うものがあった。
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平野の心は悔しさと充実感が混在していた。
2回目に、1カ月前に人類で初めて決めた究極の連続技を五輪の舞台でも完遂した。「フロントサイドダブルコーク14-キャバレリアル(キャブ)DC14」の縦2回転、横4回転の連続技に成功。持てる力はすべて出し切れた。
しかし、スーパースターのショーン・ホワイト(米国)も連続4回転の世界最高難度のルーティンを披露し、演技総合で屈した。
「笑うところまでたどり着けてない」
狙うは金メダルだけだった。その頂点からの景色を見ることは、許されなかった。ただ、「楽しめた大会」だったのも事実だった。ここまでたどり着いた過程に、一切の悔いはなかったからだ。「自分ができることはすべてやった」と心から言えた。
スノーボードには、時にマイナスな印象がつきまとうこともある。「ちゃらい」「態度が悪い」「派手」など。過去の騒動や不祥事も、そんな一部の印象を強くしていたかもしれない。そんな中、平野はストイックなアスリートの魂を持っていた。競技特有の“魅せる”美学を備えながら、燃えるような闘争心をまとっていた。ある種、従来のスノーボードとは、少しイメージが違う愚直さも持っていた。
当時160センチ、50キロ。ゆったりしたスノーボードのウエアの上からは分からないが、その小さな体は、鋼の腹筋を備えていた。飲み物は「水」だけ。周囲が別の飲料を飲んでいても、徹底して、水しか口に運ばない。無駄なものが体に入ることを拒んでいた。そして腹筋は、疲れから起き上がれなくなるほど日々、徹底的に鍛え抜いてきた。その反面、腕回りや背筋のトレーニングは控えめに無駄は省いた。
それが高いジャンプの着地の衝撃に耐えうる体をつくった。
仮に高いジャンプができたとしても、着地で体勢が乱れれば、勢いがそがれ、次のジャンプはうまくいかない。平野はベストな場所で乱れず着地して滑走距離を十分にとり、勢い、スピードを保ったまま次のジャンプへと移行できる。これが、強さの源となった。レベルの進歩が著しい競技の中で、その最たる成長曲線を歩んだ。
ただ、ソチから平昌までの4年間は決して順風満帆ではなかった。命を落としていたかもしれない事故もあった。
【「もう1本滑る」説得のち集中治療室へ/後編】(残り973文字)
それは平昌五輪の約1年前のこと。
USオープン。4回転技で転倒した体は、雪の壁に打ち付けられた。もちろん、パウダーのように包み込まれる雪ではない。ハーフパイプのコースは積み上げた雪を重機で削りながら圧縮し、コースの形を整える。
氷のように硬くなった雪にたたきつけられた。
強すぎる衝撃に、血の気はどんどん引き、顔は青ざめていった。危険な状況で、大事なのは明白だった。ただ、あふれ出るアドレナリンは激痛も不安も、体から消し去っていた。性格も負けず嫌い。自然と口にした。
「もう1本滑る」
もちろん周囲は猛反対で、棄権するように命じられるも、なかなか首は縦に振らなかった。
その後、父英功さんの説得もあり、折れた。棄権すると、すぐ救急搬送。運ばれたのは集中治療室だった。医師から告げられた。それは衝撃な言葉だった。
「1センチずれてたら死んでいたよ」
その時、目立った外傷はなかったが、体の中では異変が起こっていた。肝臓は破裂を起こし、それは膜1枚でかろうじてつながっていたという。もしも、少しでも打ちどころが悪かったら…。もしも「もう1本」挑戦していたら…。体内で大出血を起こしていただろう。命はなかっただろう。
その時、左膝の内側側副靱帯(じんたい)も痛めた。肝臓も含め、春には回復したが、最初は満足に動けなかった。「けがをプラスにできればいい」と基本的な滑走を見直す時期にあてた。治癒し、体は以前のように戻ったが、心は恐怖を拭い去る時間を必要とした。
5月。けが後、初めてボードに乗った時、何千回と滑っていた実家のジャンプ台も、2台のうちの初心者用しか滑れなかった。
「できない時間で自信をなくしていた」
五輪の金メダルをイメージし、崩れそうにもなる心を保った。恐怖心と向き合いながら、それを挑戦心へと、少しずつ変えて前に進んだ。苦難があったからこそ、誰もやっていないことへの渇望も強くなった。周囲の想像を超える進化と成長を続け、大技のルーティンを完成させた。
15歳2カ月だったソチの銀メダルは、勢いでもぎ取った結果だった。「取っちゃった」という冬季五輪日本最年少記録、日本スノーボード界史上初メダルの栄冠だった。
それから4年後の平昌。苦難を乗り越え、幾多の経験を重ねていた。結果は同じ銀メダル。その重みは、意味の大きさはまるで違った。より誇らしく感じられた。【上田悠太】