記事を書く手がぴたりと止まった。視線の先にいたのは、小平奈緒と李相花(イ・サンファ=韓国)。決着がついたリンクで、2人の主役の距離がぐんぐん詰まっていった。それに反応したファンの熱も一気に高まる。時計は午後10時をまわり、締め切りまで3分を切っていた。早く原稿を出さねばという焦りを感じつつ、どうしても目の前の光景が気になった。短い行数であっても、この情景を読者に伝えたい-。そう感じるほど特別な瞬間だった。

2018年2月18日。平昌オリンピック(五輪)の女子500メートル決勝は、国内外で24連勝中の日本のエース・小平が3度目の五輪で悲願の金メダル獲得を果たした。全16組中14組目で滑り、36秒95の五輪レコード。冒頭の場面がおとずれたのは、最終組が滑り終わり、小平の金が確定した直後だった。

小平は、リンク上で銀メダルに終わった李を両手を広げて待ち、近づいてきたライバルの肩を優しく抱き寄せた。崩れるように体を預けた李。小平が耳元で言葉をかけると、その目から涙があふれ出た。2人をたたえる温かい歓声と拍手が会場を包む。それぞれが、国旗を背にかけ、並ぶように静かにリンクを回った。

大会前、互いについての質問をかたくなに嫌がった2人。だが、そんなピリピリとした緊張感は、レース終了とともに消え去っていた。レース後の会見には2人並んで出席。小平が語った李との思い出話は、さらなる感動を呼んだ。

14年11月。小平が参戦9シーズン目で悲願のW杯初優勝を飾った。場所は、李の地元韓国だった。だが、勝利の余韻に浸る間もなく、すぐに拠点としていたオランダに戻らなければならなかった。そんな時、リンクから空港までのタクシーを手配してくれたのが李だった。「(試合の)結果は悔しいはずなのに、奈緒のためにという思いで。それがすごくうれしかった」。

この話を聞いていた李も柔らかな表情で返した。「彼女とレースをして、悪い気持ちになったことは一度もない。彼女はいい友達だから。ライバルであることを誇りに思ってる」。

涙の抱擁、そしてレース後のこのやりとり自体にスポーツの美しさが詰まっているのは言うまでもない。ただ、それだけではないと思う。互いを認め合い、尊敬し合える関係の上で成り立つ、強烈な「ライバル意識」。それが背景にあったからこそ、2人の魅力があふれ出た。そう感じさせられたのは、小平が五輪前に口にした、ある「言葉」だった。

【「サンファは私よりも・・・」/後編】(残り1104文字)

常に前を走っていたのは李だった。五輪2連覇、36秒36という驚異的な世界記録。小平が2度の五輪でメダルに届かず涙を流す中、「女帝」と呼ばれ、世界の頂点に君臨し続けた。小平が世界と戦えるようになったのは、オランダ留学を経験し、心身ともに成長した15年から。30代を間近にした遅咲きだった。

小平の快進撃が始まったころ、運命が交差するかのように、李は慢性的な膝の痛みに苦しみ、成績は下降線をたどった。2人の位置関係は逆転した。だが、小平の視線の先には、常に李が居続けた。

正確には「36秒36」で走った2013年の李の滑りだ。2017年12月の五輪開幕2カ月前に行われたW杯ソルトレークシティー大会。このレースで、小平は李の世界記録更新を狙っていた。世界記録保持者として五輪で金メダルを取る。それが小平が口にし続けた「最速」の意味であり、五輪イヤーに狙った最高のストーリーだった。

結果は1日目が36秒50、2日目は36秒54。

日本記録こそ更新したものの、頭の中の李に“敗れた”。レース後には、悔しさを隠さず言った。

「36秒36を出したサンファは私よりも技術的に高かった。それが500メートルの世界記録の難しさだと思う」

小平が「李」を追いかけ、金メダルをたぐり寄せたように、李も小平を意識することで、3度目の地元開催での復活に向け準備を進めていた。

小平が世界記録を狙ったW杯2連戦はともに2位。存在感を示すと、五輪開幕直前のレースでは、低地の自己ベストとなる37秒18の好記録をマークするなど調子を上げていった。五輪開幕後も報道陣の前には姿を見せず、1000メートルも回避。500メートルでの小平との一発勝負。そこに、すべてをかけていた。

「女帝」は持てる力を出し切った。37秒33。地元開催の重圧を背負い、堂々と戦い抜いた。大会後には、あの抱擁につながる正直な思いをしみじみ口にした。

「奈緒がいたから、挑戦してこられた」

先日、東京五輪後に、柔道男子日本代表監督に就任した04年アテネ五輪金メダリストの鈴木桂治氏に、現役時代にしのぎを削った井上康生氏について聞く機会があった。

「あの人に勝たないと誰も認めてくれない。現役中は深い話をしたこともないし、けがをしたと聞けば、『よし』とさえ思った。向こうが練習をすれば、もっとやる。その繰り返しだった。自分は、強くなるためには練習が大事、そして、勝つためにはライバルをとことん研究することが大事だと思っている」

鈴木氏の言葉は、李の36秒36の滑りを追い続けた小平と重なる部分があると思う。ライバル-。強烈に意識する存在がいることで生じる、悔しさ、喜び、感謝…。4年前のあの抱擁には、2人の中に積み重なった多くの感情が詰まっていた。【奥山将志】