<競泳 北島康介>

 東京大会を適齢期で迎える選手がうらやましい。2年後にリオデジャネイロ五輪が控えるとはいえ、20年東京大会の決定で、6年後までレールが敷かれている。自分は4年単位で、毎回 これからどうしようと考えたが、今なら6年間、競技にまい進できる。

 五輪の間の4年。ずっと高いモチベーションを維持できるのは、10代から20代前半まで。自分も2大会連続2冠を達成した08年北京大会後は、これから何を目標にすればいいのかと迷いを隠せなかった。大好きな水泳に何か追われる感覚に陥り、リセットするため渡米した。だが、東京の目標があれば、ベテランでも、そんな悩みは無縁で、もう一踏ん張りできる。各競技のレベルは上がり、メダルも増えるでしょう。

 記憶にある最初の五輪は92年バルセロナ大会。最も印象的だったのは金メダルの岩崎恭子さんではなく、男子100メートル平泳ぎで4位だった林享さん。憧れの存在だった選手が予選を2位通過。テレビの前で心から応援した。結果は100分の8秒のタッチ差で4位。その映像を見て、五輪メダルの厳しさを痛感した。同時に「金メダルを取る」と、世界一への意識も芽生え始めた。

 02年アジア大会200メートルで世界記録を出した後は、もう金メダルしか見えなくなった。03年世界選手権では100&200メートルともに世界記録で優勝できた。04年アテネ大会前にはあえて金メダル獲得を宣言した。もうメダルどうこうではない。五輪は勝つか負けるかの大勝負。のちに有言実行と言われたが「絶対勝ちに行く」との思いがあふれた結果だった。

 国を背負う悲壮感はなかったし、関係ないと思っていた。金メダルを狙える位置にいるからこそ、トライして必ず取ると。もともと「負けたらどうしよう」とかマイナスのことは考えない。自分がやったことをすべて出せば勝てると。良いイメージを抱き、結果を出すことを想像して楽しむことができた。五輪前の実績による絶対的な自信。金メダルに向け、質の高い練習をしてきた自負もあった。最後まで気持ちがぶれることはなかった。

 五輪が迫れば、迫るほど、注目度は増したが、それをプレッシャーに感じたことはない。結果を残すことで、最初は家族だけだった応援が同級生、近所の人と増える。それが町単位になり、都道府県、全国へと広がっていく。マスコミも含めて、騒がれることをマイナスに感じてはいけない。注目度の高さを、いかにプラスに受け止め、自分の力に変えていくことができるか。トップ選手には必要な要素。それが重圧になるような選手は、不調を人のせいにするようなもので、強くはなれない。

 6年後は、どうかかわっているのかと、自分に期待もしている。選手として出ている確率は低いかもしれないが、ゼロではない。泳げていたら、そんな幸せなことはない。まあ何でも可能性はゼロではないし。ただ本当に楽しみだし、今からどんな大会になるのか、ワクワクしている。(取材・構成=田口潤)(2015年7月23日付東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。