<元日本生命監督 杉浦正則(46)>

 92年バルセロナ、96年アトランタ、00年シドニーと五輪には野球で3度出場しましたが、最初に日の丸がついたユニホームを着たのは(同志社)大学4年の時でした。アジア競技大会(北京)の候補合宿に呼ばれて、監督の山中(正竹)さん(67=現法大特任教授)から「アジア大会も大切だが、このチームは2年後のバルセロナで金メダルをとるチームだ」と話があり、非常に気持ちが動きました。「五輪に出たい」と思ったのはその時でした。

 これが、私の野球人生の1つの分岐点だったと思います。卒業後は日本生命へ進み、将来的にプロを目指していましたが、そのために何かやっていたかといえば何もしていなかった。でも、五輪を目指そうと思ってからは、きちんと計画を立てるようになりました。例えば、チームが休みでも全日本のスケジュールがあるので、体を動かすようになりました。目標を持つことによって、たとえうまくいかないことがあっても「今、失敗しておいてよかった」と思えるようになり、「失敗は成功のもと」という考え方ができるようになりましたね。

 バルセロナは銅メダル。その悔しさがあり、96年アトランタを目指そうと思いました。決勝でキューバに負けて銀メダルとなったアトランタの後は、当時のダイエーさんや、メジャーのメッツさんからも話をいただきましたが、結局(五輪出場とプロ入りへの)気持ちが五分五分にもなりませんでした。当時の五輪はアマチュア選手のみの構成。32歳なら、シドニーに出られるのではないかと思いました。キューバを倒して金メダルを取りたかった。もう、五輪の魅力に取りつかれていたと思います。

 4年に1度の思い、ってすごいです。だからこそ、とんでもない失敗が起こることもある。また、その間に出会いがあり、その分の思いも積み重なります。アトランタの後、98年に結婚しましたが、結婚式で「シドニーに連れていく」とか言っちゃって(笑い)。ちょっと恥ずかしい話ですが、行けてよかったです。

 シドニーでは(五輪通算)5勝目を挙げることができました。約10年間五輪に関わることができ、周りの方々に「ミスターアマ野球」なんて言ってもらえるのは恥ずかしいですが、うれしいことです。20年の五輪は自国開催。プレッシャーは相当あると思いますが、やりがいもある。選手として出てみたかったです。(2015年02月04日東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。