<新日本プロレス相談役/坂口征二(73)>
64年東京五輪で、私は柔道の日本代表になれなかった。柔道が初めて五輪種目に採用されることになり、私は明大2年のころから五輪代表候補となり合宿や、試合をたくさんやらされた。4年の全日本選手権では、準決勝で猪熊功さんを破り、決勝では神永昭夫先輩に敗れた。そして五輪前の、最後の夏合宿。私は腰を悪くして、練習ができなくなってしまった。周囲からは、若いから次頑張れと言われ、五輪代表は、重量級が猪熊さん、無差別級が神永先輩に決まった。
五輪前には、仮想ヘーシンクとして神永先輩のけいこ相手を務めた。付け人として練習に付き合い、タオルを持って毎日武道館に通ったよ。五輪のときは、会場で神永先輩がヘーシンクに抑え込みで負けたのを間近で見た。あのときのヘーシンクは充実していて、猪熊さんやオレが行っても勝てないと思ったね。
印象に残っているのは、勝負がついた後のことだ。オランダのコーチたちが大喜びで、叫びながら畳の上に上がってきたんだ。それをヘーシンクが片手で「待て」というように制して、礼をして静かに畳の上から去っていった。あれを見て、オレは外国にもすごい選手がいると思ったし、もうこれで柔道は日本の柔の道じゃなくて、アルファベットのJUDOになったと思ったね。
東京五輪が終わって、翌年の世界選手権でヘーシンクと対戦した。準決勝で当たって一本は取られなかったけど、優勢負けだった。ヘーシンクはオレに勝った後に引退したけど、オレは次のメキシコ五輪の代表候補と言われ、必死に練習した。それが、メキシコ五輪で柔道がなくなることを街頭テレビで知った。当時23歳だったけど、すぐに「8年も待てない」と思った。今は、競技年齢が上がって30歳ぐらいまでやる人も多いけど、当時は26、27歳で一線を引いていたし、選手の入れ替わりも激しかった。で、2年間サラリーマンをやってからプロレス界に入ったんだ。
東京五輪のとき柔道は参加国が少なく、各階級10人程度しか参加していなかった。今は、日本よりフランスの方が競技人口が多いとも聞く。日本も、底辺の部分から競技人口を増やさないと厳しいと思う。オレも7年ぐらい前に子どもたちを対象に坂口道場を開いた。5~6年でやめたけど、やはり誰かがやらないといけないと感じた。今の重量級にはフランスのリネールという強豪がいて、オレたちのヘーシンクと同じ状況だね。日本には飛び抜けた選手はいないようだけど、頑張ってほしいね。
(2015年8月12日東京本社版掲載)
【注】年齢、記録などは本紙掲載時。