私は、フェンシングの本を読んで基礎を学んだ。高2で始めたが、教えてくれる人がいなかった。仕方なく、友達と2人で本を買い、最初の構えから、突き、防御などをまねた。勉強ができる方ではなかったが、当時フェンシングが最も強かった中大に入るため、高3の時は、顧問の先生の家に泊まり込んで勉強を教えてもらった。
中大に入ってからは、チームの練習とは別に、都内のクラブに通って技術を習得した。そのクラブで、76年モントリオール五輪日本代表選手のバッグを目にした。「格好いい。僕もあのバッグを持ちたい」と五輪への夢を膨らませ、ようやく88年ソウル五輪に出場することができた。
引退後は指導者として北京、ロンドン、リオデジャネイロ五輪の日本代表にかかわった。太田選手が頑張ってくれたおかげもあって、2度メダルを獲得することができた。リオ五輪でメダルが取れず、代表監督を辞任した。8年間、代表にかかわりながらも頭から離れなかった言葉がある。
育成-。フェンシングに興味を持った子供がいても、教わる場所がない。自前の運動施設を持つクラブは数少ない。行政の理解を得て、区や市の施設を限られた曜日、時間に使用するのが現状だ。代表監督を退いた後、星槎(せいさ)グループの井上理事長に出会い、現在は星槎国際高川口キャンパスで、子供たちを教えている。
生徒が使用しない時間帯には、小学生からの子供たちを受け入れていて、また、各年代別の日本代表に入れない選手も指導し、代表の底上げを図っている。今後、このような施設を少しずつ増やし、日本代表のコーチングスタッフの代表を退いてからの受け皿としても考えている。
今は東京五輪に向け、国や企業が投資をしてくれる。当然、メダルを取ることが最優先だが、本当にフェンシングが生き延びるためには「その後」が大事となる。現在6000人の競技人口を目標の5万人に増やすため、底辺拡大へ地道に努力することが、8年間お世話になった日本代表への恩返しだと思っている。
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