社会奉仕団体「ライオンズクラブ国際協会」で、MD330オリンピック・パラリンピック支援特別委員会の副委員長をしています。今年6月に20年東京パラリンピックへの支援を決定しました。(1)出場を目指す次世代選手への活動資金の援助(2年間約2億円)(2)障害のある子どもたちの大会招待(約7500万円)(3)メダリストへの報奨金贈呈(金、銀、銅一律100万円)(4)新国立競技場付近に時計台などの付帯設備の設置・協力の主に4つの支援事業で、総額約4億円です。

もともと人気のある五輪の競技には、支援しなくてもお金は集まります。でもパラリンピックはまだまだ注目度が低く、競技団体は財政的にも苦しい。だからパラの選手を応援していこうということになりました。今年の前期は148人に強化費約9135万円を支援しました。一気に成績を上げた選手もいます。

私自身、レスリングで76年モントリオール五輪に出場しました。専大1年から日本選手権で4連覇して、金メダルを期待されていました。自分も優勝するつもりでした。ソ連(当時)とブルガリアの選手との三つどもえの決勝は、最終戦で私が負けても持ち点で優勝できたのですが、攻めているのに、攻めていないと失格になりました。3人の審判は全員共産圏。悔しい銅メダルでした。

五輪後、私は22歳できっぱり引退しました。76年は大学を卒業した年でした。燃え尽きたというより、当時はスポーツで飯が食える時代ではありませんでしたから。その後はスポーツ用品店の経営を経て、現在はビルなどを管理する株式会社アメニティコーポレーションの代表を務めています。ただ会社を経営しながらもレスリングとはずっと関わってきました。

地元岩手の宮古でのレスリング教室に始まり、日本レスリング協会の総務副委員長、専大レスリング部監督も務めました。協会時代の一番の思い出は、代々木第2体育館で全日本選手権開催を実現させたことです。当時は「レスリングには貸せない」と断られ続けていましたが、いろんな方々にお願いして88年にようやく使用を認められ、それが今も続いています。

私は10歳の時に64年の東京五輪をテレビで見て、レスリングをやると決意しました。自国開催の五輪はそれほど大きな力があります。きっと20年大会も日本社会のあらゆる起爆剤になるはずです。今、スポーツ界はパワハラ問題などで揺れていますが、20年大会が古い体質からの脱却、世代交代のきっかけになればと思っています。

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