ジャンプは恐怖心との闘いだという。時速100キロを超えるスピードで、斜度40度の着地点に突入する。遠くに跳ぶほど斜度がなくなり、雪面が立ち上がって、目の前に迫ってくる。「大ジャンプを飛ぶと、壁に向かって走る短距離ランナーの心境になる」。元五輪代表の秋元正博氏は、20年前の日刊スポーツにそう語っている。

 葛西紀明はそんなしんどい孤独な闘いを、四半世紀以上も続けているのだ。平昌五輪(ピョンチャンオリンピック)のジャンプ男子ノーマルヒル決勝で、果敢に宙を飛ぶ45歳の勇姿を見て、あらためて畏敬の気持ちが沸いてきた。高い身体能力と技術とともに、長きにわたる恐怖心との格闘にも動じない強靱なる心が、8大会連続出場という偉業を支えているのだろう。

 彼が19歳で初出場した92年アルベールビル五輪を、私は現地で取材した。当時はスキー板をそろえて飛ぶスタイルから、板をV字に開いて飛ぶV字ジャンプへの移行期。開幕1カ月前にV字に変えた葛西の極端な前傾姿勢は「カミカゼ」と呼ばれた。ずいぶん後になって気づいたのだが、天性の強心臓は誰よりも柔軟だった。その後20年以上にわたるルールの目まぐるしい変化に、多くのライバルが振り落とされる中、彼はことごとく順応してみせた。

 思えば92年は、まだJリーグも誕生していなかった。夏の甲子園での松井秀喜の5打席連続敬遠が大きな話題になった年でもある。あの怪物高校生がプロで一時代を築き、現役を引退してもなお、葛西は世界の第一線で飛び続けているのだ。そう考えたら、大げさに思えた『レジェンド』という彼の愛称にも、違和感がなくなった。

 平昌五輪最初の種目は21位にとどまったが、「安定してくればいいジャンプがどんどん出てくる」と、ファイティングポーズは崩さなかった。その姿に何だかホッとした。五輪の主役は選手なのだ。形だけの南北融和の政治運動と化した開会式を見て、くさくさしていた気分がスッと晴れた気がした。まだラージヒルと団体が残っている。葛西の恐怖心との格闘も、もうしばらく続くのだ。【首藤正徳】

2回目を飛び渋い表情の葛西(撮影・黒川智章)
2回目を飛び渋い表情の葛西(撮影・黒川智章)