「オリンピックには魔物がいる」とよく言われる。その魔物を目の前で見たことがある。1992年アルベールビル大会。フィギュアスケート女子の伊藤みどりが、オリジナルプログラム(OP、現ショートプログラム)当日の朝練習で、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を、突然跳べなくなったのだ。
彼女だけしか跳べない最大の武器。現地入り当初は絶好調だったが、この朝は十数回跳んで1度も成功しなかった。体はこわばり、何かに縛られているようだった。本番を目の前にして、金メダル最有力という重圧が、彼女の両肩を押さえつけたのだ。結局、OPではトリプルアクセルを回避したが、難度を下げたトリプルルッツ(3回転)で転倒して、4位と出遅れた。
- 5位に終わり倒れ込む渡部暁(撮影・黒川智章)
平昌大会のノルディックスキー複合ラージヒルで、5位に沈んだ金メダル候補の渡部暁斗のレースを見ながら、あの26年前の光景がよみがえってきた。頂点を狙ったノーマルヒルで2大会連続銀メダル。この日は前半のジャンプで首位に立ち、複合の個人種目で日本勢初の金メダルが、手の届くところに見えていた。
後半距離も先頭集団にいた。ところが、残り1キロ付近でふらつき、板が他の選手とぶつかって、集団からはじき落とされたのだ。実はジャンプでトップに立ったことで精神的な負担が増し、「逃げなければ」のはやる気持ちが、ふだんのペースを乱したという。肉体的にも「限界だった」と渡部は明かした。
84年サラエボ大会のスピードスケート男子500メートルで、金メダル最有力と言われながら、重圧につぶされて10位に沈んだ黒岩彰さんがこんな話をしている。「オリンピックに魔物がいるという。でも魔物を心の中につくっているのは自分なのです」。だとしたら魔物を追い払うのも、また自分なのだ。
26年前の話に戻る。2日後のフリー。伊藤は勝負をかけた前半のトリプルアクセルでも転倒した。金どころか、メダルの望みもついえたと思った。ところが、後半のジャンプで伊藤は瞬時の判断でルッツではなく、アクセルに挑んで見事に着氷したのだ。五輪で女子が初めて決めたトリプルアクセル。強い心で魔物に打ち勝ったのだ。
- 銀メダルを獲得した伊藤みどりの演技(1992年2月21日)
私は記者席で鳥肌立った。あんなに高く、美しい、トリプルアクセルをいまだに見たことがない。そして、銀メダルをかけた伊藤の笑顔を見ながら、オリンピックには魔法もあるのだと思った。
いよいよ平昌大会も終盤に突入する。渡部暁斗の最後の種目、団体は明日22日にスタートする。【首藤正徳】