間寛平から若手へ 新喜劇の黄金時代も暗黒時代も知るからこそ伝えたい
新喜劇を離れて東京で勝負しよう-。苦渋の決断をせざるを得なかった間寛平。退団から33年、新GMとして復帰した彼は今の新喜劇はどう見たのか。
お笑い
吉本新喜劇のゼネラルマネジャー(GM)に就いた間寛平(72)。吉本新喜劇といえば、吉本興業の中でも63年の歴史を誇る「大阪の宝」。21歳で新喜劇の門をたたき、研究生から苦労を重ねて座長に。かつての黄金時代を知る寛平は誰よりも新喜劇愛が強い。「現状のままで満足するな。若い座員にはもっと、もっと成長してもらいたい」と熱い期待を寄せている。
◆間寛平(はざま・かんぺい) 1949年(昭24)7月20日、高知県宿毛市生まれ。12歳から大阪で暮らし、70年に吉本入り。吉本新喜劇の花紀京さんに師事。木村進さんとのコンビで人気を得て、23歳で2人座長。24歳で単独座長。「ア~メ~マ」「かい~の」「アヘアヘアへ」など数々のギャグがヒット。89年に東京へ。ギリシャの鉄人レース・スパルタスロンや地球一周アースマラソンなどで超人ぶりを発揮する。22年に新喜劇GM就任。
芸能界入りを夢見る若き日の寛平は、知人の紹介で大阪・新世界のストリップ劇場に出演していた。1年ほど舞台でもまれていたが、当然ながら客は大人の男性ばかり。「もっと小さな子どもにも見てほしい。誰でも笑ってもらえる芸人になりたい」。当時吉本新喜劇の座長として人気だった花紀京さん(15年死去)の付き人になった。
このとき21歳。師匠の靴を磨いたり、食事を運んだり雑用の日々を過ごすが、まだ世間知らずの面もあり、失敗続きの毎日だった。
ある日、花紀さんの楽屋に人気コメディー番組「てなもんや二刀流」(ABCテレビ、70~71年放送)の台本があった。それを見つけた寛平、師匠の花紀さんに歩み寄るや「てなもんやに出るの?」とタメ口で話しかけた。あきれた花紀さんが「お前と俺は友達か? その言葉づかいは何や!」と叱られた。
1度は反省するも、翌日になると、また同じような口調で話しかけて「ええ加減にせえ!」。時にはどつかれることもあった。
「まあ、毎日のように叱られて、怒鳴られて」と振り返る寛平。花紀さんが梅田コマ劇場(当時)に出演していた折、芝居の中で照明が消え、暗転となるシーンがあった。真っ暗で何も見えないため、寛平が懐中電灯を用意して師匠を誘導する役目を仰せつかった。
「懐中電灯で花紀さんの足元を照らさなあかんのに、まあ、アホやな。顔に光を当てとった…。真っ暗な中に花紀さんの顔がボーッと見える。客席は大爆笑でしたわ」