見たことがない、優しい石原裕次郎がそこに…日本中の応援に手を振り応えたスター/中

昭和を代表する映画スター石原裕次郎さん。デビュー映画「太陽の季節」や「嵐を呼ぶ男」で時代の象徴となり、「黒部の太陽」「富士山頂」など骨太な作品を映画史に残した。テレビドラマでも「太陽にほえろ」「西部警察」で印象的な場面を描き続けた。そして誰もが忘れられないのは…。1981年(昭56)6月21日、入院中の東京・信濃町の慶応病院屋上で、ガウン姿の裕次郎さんがファンに手を振った。解離性大動脈瘤(りゅう)と闘った入院期間は同年春から夏の終わり。あまりに劇的な129日間を、日刊スポーツで振り返ります。全3回の中編です。(内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

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石原裕次郎の姿を撮ろうと100メートル離れた信濃町駅ビル屋上から望遠レンズを構える報道陣

石原裕次郎の姿を撮ろうと100メートル離れた信濃町駅ビル屋上から望遠レンズを構える報道陣

病院に激励電話殺到、特設窓口に見舞い品山盛り

「タフガイ勝った」と6時間33分の大手術を報じられた俳優石原裕次郎さん。映画、ドラマで残した作品とともに、人生そのものが劇的でドラマチックだった。手術当日の東京・慶応病院には500人の報道陣が集まり、テレビカメラは41台を数えた。空前の裕ちゃん報道は、日刊スポーツのスクープ写真や、あの屋上の名場面へとつながっていく。

1981年(昭56)5月7日、裕次郎さんの解離性大動脈瘤の緊急手術が発表されると、入院先の東京・信濃町の慶応病院に続々と人が集まり始めた。翌8日付の芸能面によると集まった報道陣は500人。テレビ東京を除く民放の各局が午前中と午後にワイドショーを生放送していた時代で、番組ごとにスタッフを派遣しているため、TBSだけでもカメラ9台で、40台が病院内を右往左往していたとしている。ラジオは24時間リポートできる態勢で、スタッフを常駐させた。

石原裕次郎の容体について記者会見する主治医の井上正心臓外科教授(左)、右は石原プロ小林正彦専務

石原裕次郎の容体について記者会見する主治医の井上正心臓外科教授(左)、右は石原プロ小林正彦専務

裕次郎さんはそれまでにも肺結核や舌下潰瘍で同病院に入院したが、当時は報道陣も二十数人ほどで、同病院の秘書課長(当時)によると「こんなに大勢集まったのは、大正6年に開院以来」とのコメントが掲載されている。同病院の外来患者数は当時も今も1日平均3000人。そこに、機材を抱えたマスコミが集まるから、「騒動が大きくなって、患者に影響を与えねば」と心配する来院者の声も紹介されている。駐車場に入りきれない報道陣の車列が病院外にはみだし、四谷警察署が深夜まで巡回した。裕次郎さんを心配するファンの「がんばるように言ってくれ」という電話は交換室が対応した。多いときで150本。40年前の騒動とはいえ、病院スタッフにはただただ頭が下げるばかりだ。

裕次郎さんは手術から一夜明けた5月8日に意識を取り戻した。

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編集委員

久我悟Satoru Kuga

Okayama

1967年生まれ、岡山県出身。1990年入社。
整理部を経て93年秋から芸能記者、98年秋から野球記者に。西武、メジャーリーグ、高校野球などを取材して、2005年に球団1年目の楽天の97敗を見届けたのを最後に芸能デスクに。
静岡支局長、文化社会部長を務め、最近は中学硬式野球の特集ページを編集している。