【出水慎一〈上〉】宇野昌磨らを支えたトレーナーの半生 荒れた中学時代の記憶

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第30弾は初となるトレーナーの登場。これまで小塚崇彦さん、宮原知子さん、宇野昌磨さんらを支えてきた出水慎一さん(45)のルーツをたどります。

第1回はスポーツを支える道を志すまでの物語。全3回でお届けします。(敬称略)

フィギュア

30年以上前に母は言った「信用していますから」

2024年5月16日、JR南船橋駅。

三井不動産アイスパーク船橋に程近いカフェに、キャリーケースを引いた出水が姿を見せた。

自身の半生を振り返った出水慎一さん(撮影・松本航)

自身の半生を振り返った出水慎一さん(撮影・松本航)

2日前にはともに国内外を転戦した宇野の引退会見が開かれていた。

「ライブ配信で見ていましたよ」

そうほほ笑むと、店の奥の座席に腰かけた。

昨季から2023年世界選手権代表の渡辺倫果が担当選手に加わった。渡辺は船橋をメインリンクとする。

出水は拠点の北九州から羽田空港へと移動すると、最近は観光客に交じり、空港から東京ディズニーリゾートへと向かうバスを利用しているという。

「最初は羽田から電車を使っていたんですが、人は多いし、荷物もあって…。ほとんどバスになりました」

そこから舞浜駅まで歩き、JR京葉線で4駅。ほぼ毎週、海風を感じるこの地で渡辺と向き合う。

1月20日で45歳になった。

このような生活は、30代になるまで想像できなかった。

自らの半生を思い返すと、大切な人の言葉が鮮明に浮かんできた。

「うちの子の本当のところを、知らないでしょう。私は信用していますから」

30年以上前、母が発した言葉を覚えている。

どこかでボタンを掛け違えていれば、フィギュアスケートとの出合いもなかった。

スイミングからサッカー 元気が取りえの少年が…

1979年1月20日。その6年ほど前に広島市へと編入していた安古市(やすふるいち)で生を受けた。

広島生まれの母、鹿児島県姶良市出身の父が結婚し、この地に住んでいた。

出水は2歳の時に福岡市東区へ引っ越したため、当時の記憶がない。それでも母方の祖父母を訪ね、帰省した楽しい思い出が残る。

「母の実家は商店街の中にあって、近くに造幣局が見えていました。おばあちゃんがデパートの『イズミ』に連れて行ってくれて、屋上にゲームセンターがあるんです。帰省して、おばあちゃん、おじいちゃんと遊ぶのが楽しかったです」

2歳からは福岡市東部に位置し、交通の要所といえる香椎で育った。

元気が取りえで、落ち着きのない少年だった。

小学生の頃、笑顔でピースする出水慎一さん(本人提供)

小学生の頃、笑顔でピースする出水慎一さん(本人提供)

家族で買い物に出かけると、両親の目の届かない場所へと行ってしまう。

幼稚園のころ、半ば強制的にデパートの屋上にあったスイミングスクールに入れられた。楽しかった一方で、中耳炎に悩まされた。

卒園後は福岡市立舞松原小学校に入学した。放課後には同じ社宅の友人たちとボールを蹴り、サッカーへの興味も出てきた。2年生のころに体験に行き、その流れでチームに入団。熱中するものがスイミングから、球技へと移った。

「偶然にも江川マリアちゃんと同じ小学校です(笑い)。サッカーは攻撃が好きで大体FWかMF。5年生の時には周りの地区から集めた選抜チームに行くようになって『プロサッカー選手になりたい』と言っていました」

俊足を生かし、サイドを突破することが快感だった。テレビや雑誌で取り上げられる、ペレやマラドーナの特集にくぎ付けになった。

6年はあっという間だった。

進んだのは福岡市立多々良中学校。

ここから生活は大きく変わっていった。

担任の懸念「慎一くんはとんでもない方向に…」

中学校への入学からほどなく、小学生時代のサッカーの先輩に校門で呼び止められた。

本文残り69% (3372文字/4864文字)

大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。
プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。
2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。
21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球、水泳などを担当。22年北京冬季五輪(フィギュアスケートやショートトラック)、23年ラグビーW杯フランス大会を取材。
身長は185センチ、体重は大学時代に届かなかった〝100キロの壁〟を突破。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。