あれから10年-。
2011年3月11日。僕は「小学生年代のワールドカップ(W杯)」と呼ばれている、ある国際大会のスタッフとして、開催準備で名古屋のスタジアムにいました。その年から全国規模になった大会の日本予選だったので、たくさんの少年クラブチームが全国から集まってきました。
大阪予選から始まり、名古屋、東京、決勝大会という流れで日本代表を決める予定でした。その名古屋予選の前日準備の際に地震は起きました。遠く離れた名古屋にいた僕らですら、揺れた瞬間にスタジアムの真ん中にスタッフ全員を避難させたほどでした。いったん、揺れが収まり、改めて準備を始めるとスタジアムの管理人が大声で僕らを呼びました。
「えらいことになってる」
管理人と一緒に僕らがテレビで見た光景は、日本で起きていることなのかと疑いたくなるようなものでした。
全ての準備を終えた僕らはまだ大会を開催する方向で動いていました。その時はまだ情報が交錯して現状がつかめていなかったのです。あの時の僕らにできたことは、大会が行われた場合に参加者の安心安全を確保しながら無事に運営を終えることに全神経を注ぐことでした。
準備を終えて宿舎に戻ると、地震と津波の被害が想像以上に大きく「これでは開催できない」と考え始めました。その時に3月13日に行われる予定だった名古屋国際女子マラソン(現名古屋ウィメンズマラソン)が中止になったという速報が入りました。それを受け、すぐに僕らも開催中止の判断をしました。深夜移動で名古屋入りする少年チームにも連絡を入れ、中止を伝えました。
東京に戻ると、より事の重大さを感じ始めます。ただそれと同時に自分の無力さに気が付かされます。
「僕に何かできることはないか」
そう考え始めてから1カ月後。当時働いていたサッカースクールの子どもたちに、みんなの宝物を被害に遭って避難所にいる子どもたちに届けようというプロジェクトをはじめました。子どもたちはそれぞれ思い思いのものを持ってきてくれました。ハイエースにいっぱいになった宝物をJICAの協力を得て現地まで運び、避難所にいる子どもたちに渡しに行きました。
その後も関係性のあった仲間たちと連絡を取り合い、宮城県を中心に何度か避難所を訪問したり、サッカー教室をしに行ったりと、現地に向かうことがありました。正直、サッカー教室どころではないのではないかと感じることもありましたが、笑顔になって走り回る少年、少女たちを見てほほ笑む親御さんたちの姿に安堵(あんど)を覚えました。
2011年のクリスマスには、クリスマスイベントを開催するために被災地を訪れ、大きなツリーを作ってみんなで願いごとをしました。その中にいた1人の少女がこんな願い事をしていました。
「みんなが幸せになりますように」
小さな小さな少女は、自分のことで精いっぱいにもかかわらず、みんなの幸せを願っていました。
あれから10年。自然災害を僕らはどう捉えるようになったでしょうか。いまだに自然の猛威には勝てない、仕方ない、そんな風に思っているのではないでしょうか。もちろん、自然がもたらす脅威は計り知れません。
しかし、もしこの脅威が我々人間の傲慢(ごうまん)が原因だとしたらどうでしょうか。地球の健康も動物の健康も人間の健康も同等だと考えず、どこかで人類ナンバーワン思考が人間の傲慢を生み出し、地球を汚し、動物の生息域を脅かした結果、それが災害などに繋がっているとは考えられないでしょうか。3・11が僕ら人間への「警告」だったとしたら、僕らはそこから何を学んできたのでしょうか。僕はこのコロナウイルスも同様に我々人類への「警告」だと感じています。
日本人は世界で1番フェイクニュースを拡散する人種だそうです。確かに都市伝説的な話が好きで、多くのことを「信じるか信じないかはあなた次第です」と片付けてしまいます。環境破壊や気候変動などの地球の健康について、我々人間はもっと謙虚に学ばなければならないと思います。
10年前、1人の小さな小さな少女が願った思いを絶対に台無しにしてはいけないと改めて思わされました。僕にはまだそこまでのことはできていませんが、100年後の社会がより良いものになっていることを想像して、今、僕ら人間ができる最善を考え、深く思考して、積極的に動きだすことが重要です。
人間として科学は絶対ではなく、もっと謙虚になり、僕らがまだ見えていないものに目を向ける努力を惜しんではいけないと思います。10年たった今だからこそ、もう1度深い思考をもって、高い視座で世の中を見つめ、1人1人にできることをアクションしていきたいと思います。
黙とう。(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「年俸120円Jリーガー安彦考真のリアルアンサー」)
◆安彦考真(あびこ・たかまさ)1978年(昭53)2月1日、神奈川県生まれ。高校3年時に単身ブラジルへ渡り、19歳で地元クラブとプロ契約を結ぶも開幕直前のけがもあり、帰国。03年に引退するも17年夏に39歳で再びプロ入りを志し、18年3月に練習生を経てJ2水戸と40歳でプロ契約。出場機会を得られず19年にJ3YS横浜に移籍。同年開幕戦の鳥取戦に41歳1カ月9日で途中出場し、ジーコの持つJリーグ最年長初出場記録(40歳2カ月13日)を更新。20年限りで現役を引退した。同年12月には初の著書「おっさんJリーガーが年俸120円でも最高に幸福なわけ」(小学館)を出版。オンラインサロン「Team ABIKO」も開設した。175センチ、74キロ。