高橋大輔、織田信成、町田樹が滑り、宮原知子、本田真凜、白岩優奈、紀平梨花らが偉大な先輩に続けと育った場所。近年のフィギュアスケート界の一大拠点は06年7月、関大高槻キャンパス(大阪・高槻市)の一角に完成した。
きっかけは04年11月、高橋らが練習した同市内の「O2スケートリンク」の閉鎖だった。55年創部のアイススケート部、48年創部のアイスホッケー部の学生は近隣のリンクの使用。だが、それらのリンクは飽和状態で、夜中にしか練習できないこともあった。織田の母としても知られる憲子コーチら関係者は「リンクをつくってください」と理事長室のドアを何度もたたいた。
当時の森本靖一郎理事長(85)にも同情の思いがあった。ある日、後に関大に進む京都外大西高の沢田亜紀が大阪のリンクから、終電で京都に帰る様子をテレビで目にした。「若いのにね、電車の中で寝とってね」。04年10月から理事長の森本氏はスケートリンク建設を理事会で提案。理事15人中14人が反対だった。
理由は分かっていた。建設費に加え、完成後の膨大な製氷経費や電気代。ならばと、自ら動いた。「90年の大阪花博の時に確か『凍る橋』みたいなのがあった。大阪ガスでは『ガスで冷蔵庫』と宣伝もしていた。ガスをうまく使えば、氷ができる」。人脈を使って研究を始めた。製氷にガスを用いれば省エネ、加えて「当時(年間)50万リューベ以上使うと、ガス代は半額。高槻キャンパスですでに35万リューベ使っていた。スケートリンクには30万リューベかかって、合わせて65万リューベ。2で割ると、前より安くなった」と執念で理事をうなずかせた。
森本氏の情熱は、08年に理事長を退いても不変だ。19年完成の大阪・泉佐野市内の「関空アイスアリーナ」建設プロジェクトに携わった。「スケート界は伸びてきた。でも、リンクがない。リンクがないから指導者が食べていけない。指導者が安心して指導に専念するためにも、その場を与えてやらなアカン」。関大の成功例は、次に引き継がれる。(2017年12月16日紙面から。年齢は掲載当時)