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 テニス人生で最もつらかったのが右ひじの手術を受け、09年3月から1年間、実戦から遠ざかった時期だ。10年4月には世界ランキングが消滅。「どん底だった。すべてを失った」と落ち込んだ。ケガで世界ランクが消滅し、トップに戻れた選手はほとんどいない。

 診断は難しかった。触診や磁気共鳴画像装置(MRI)では判断できず、09年8月4日、都内の病院で内視鏡検査が行われた。軟骨損傷と滑膜炎が見つかり、その場で治療と除去の手術が行われた。「初めての手術で本当に不安だった」。

 リハビリは筋力の回復から始めた。ひじに負担がかからないように柔らかいスポンジボールを使い、子供がやるミニテニスでプレーした。それでも手術後、3カ月後の11月にはコート上での練習を始めた。「最初は打っている感覚がまったくなかった」。それでも、耐えながら練習に励んだ。

 10年4月の米国で行われたツアー下部大会から本格的な復帰を果たした。世界ランキングを戻すために、下部大会の転戦から始めた。振り出しに戻ったテニス人生。しかし、錦織の実力は本物だった。同年下部大会で4度の優勝。消滅していた世界ランクを年末には100位近くに戻した。

 11年、ツアー転戦に戻り、4月の全米男子クレー選手権では初優勝した08年以来、ツアー2度目の決勝に進むまで回復した。「長かった。ここまで戻ってこれるとは思わなかった」。決勝で敗れたが、錦織のひとつの転機になった。

 同年10月、スイス室内準決勝でジョコビッチを下し、日本男子として初めて世界1位を破った。ただ決勝でフェデラーに敗れ「今のテニスでは限界がある。速い展開の攻撃プレーが必要」と痛感。12年から、現在の基礎となる速いタイミングのプレーを取り入れた。

 同時に専属トレーナー、管理栄養士らを付け、体を根本から鍛え直した。年間に2~3度、トレーニング期間を設け、体をチェックする体制を整えた。その結果ケガが減った。ケガさえ減れば、もともと才能と実力は折り紙付き。一気に、そのテニスが開花したのが14年全米の準優勝だ。歴史の扉をこじ開け、国民的ヒーローが誕生した瞬間だった。(おわり)【吉松忠弘】