9月開幕のワールドカップ(W杯)日本大会へ向かう日本代表には、多くの海外出身選手がいる。19年最初の連載「ラグビーW杯がやってくる」は、他国出身選手の是非が議論されることもある中、日の丸を背負って戦う選手の思いに迫る。シリーズ初回は15年W杯の南アフリカ戦勝利に、フル出場で貢献したロックのトンプソン・ルーク(37=近鉄)。W杯3大会連続出場の功労者が歩みを振り返り、今の代表へエールを送った。【取材・構成=松本航】
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4月で38歳になるトンプソンは、日本で過ごす15年目のシーズンを終えた。トップリーグ昇格はならなかったが、近鉄の一員として昨年12月の入れ替え戦もフル出場。海外出身選手で日本代表最多64キャップを持つ男は、コテコテの関西弁でその日々を思い返した。
トンプソン 15年W杯の南アフリカ戦は、めっちゃいい思い出。家族も招待していて、本当に素晴らしい経験やった。それとW杯のピッチに初めて立った07年のフィジー戦。「初キャップ」はいつも特別だから。
04年に三洋電機(現パナソニック)と契約し、ニュージーランド(NZ)生まれの23歳は初めて日本の地を踏んだ。カンタベリー州代表で試合に出ていたが、NZ代表「オールブラックス(ABs)」の名ロック、ジャックらが代表から戻ると2軍が濃厚な立場だった。
トンプソン カンタベリー協会と三洋につながりがあって、マネジャーに「三洋にはチャンスがある。1、2年やって、戻ってきたら」と言われたのがきっかけやった。日本のイメージは「人が多い」。あとは高1の2カ月間、たまたま日本語を勉強したけれど、めっちゃくちゃ難しかった。
初めて見た日本の景色は驚きの連続だったという。
トンプソン 成田空港を出ていきなり高速道路のレーンの多さにビックリ。あとは電灯とコンビニが多い。初めは生魚がダメで、刺し身のサーモンは焼いてもらっていた。今はすしも、ラーメンも、お好み焼きも好き。子どもがいつも『すし!』って言うから、回転ずしにめっちゃ行く。
当初は2年で戻り、ABsを目指すつもりだったが、06年に近鉄へ移籍した。
トンプソン 三洋をクビになって、そこに近鉄から話があった。今となってはいい判断。日本の人はめっちゃくちゃ優しくて三洋の頃から大好きやったね。
この選択は日本代表入りを加速させた。07年4月の香港戦で初キャップを獲得。現在のルールでは「36カ月以上の継続居住歴がある」など条件を満たせば、国籍に関係なく国・地域の代表になれる。W杯3大会連続出場を果たした男は、大躍進した15年W杯を終えて代表引退を表明。だが、故障者続出のアイルランド戦(17年6月)で“1試合限定復帰”を果たした。フル出場で体を張り続けた「救世主」は試合後に言った。
「自分の仕事はできたけれど、おじいちゃんだから疲れたよ。さよならだよ。(代表には)戻りません」
日本ではW杯が行われる度に、他国出身選手が名を連ねる是非が問われる。15年W杯期間中にはFB五郎丸(ヤマハ発動機)が「外国人選手にもスポットを。国籍は違うが日本を背負っている。これがラグビーだ」などとツイッターへ投稿。10年に日本国籍を取得したトンプソンも、桜のジャージーへ強い思いがある。
トンプソン 僕にとって日本代表と近鉄のジャージーはめっちゃ特別。近鉄は会社とファン。日本代表は日本中の思いを背負うことになる。それは兄弟みたいなもの。だから、代表のプレーに誇りを持つ。日本人のみなさんのためのプレーに、僕は震え上がる。毎回ベストを出さなきゃいけないし、体を張って戦わないといけない。
W杯まで残すは8カ月。
トンプソン ベスト8は簡単じゃないけれど、素晴らしいチャンスがある。期待値が高くて、外からの重圧もあるけれど、それをうまく使えば、めっちゃくちゃいいW杯になるね。
トンプソンは黒のペンを握り、色紙へ現代表へのエールを力強く書き込んだ。
トンプソン そのジャージーを着る意味を絶対に忘れないでほしい。日本全体の代表。兄弟たちのために戦う姿を誇りに思います。
覚悟を持った男たちに、出生地や国籍は関係ない。
◆トンプソン・ルーク 1981年4月16日、ニュージーランド・クライストチャーチ生まれ。13歳で競技を始め、セントビーズ高、リンカーン大などを経て04年来日。三洋電機に在籍し、06年から近鉄。練習場へママチャリで通う。家族は妻ネリッサさんと2女1男。6歳の長女が小学校に入学するため、今年から家族はニュージーランドで暮らす予定。196センチ、110キロ。
- 15年10月、W杯サモア戦で突進するトンプソン・ルーク(撮影・PIKO)