日本代表の「外国出身選手の物語」最終回は、16年リオデジャネイロ・オリンピック(五輪)の7人制日本代表で4位入賞に貢献したWTBレメキ・ロマノラバ(30=ホンダ)。力強い突破が魅力のトライゲッターはニュージーランドで生まれ、「サムライの国」の国籍を取得した。胸中にはワールドカップ(W杯)日本大会での活躍、20年東京五輪の7人制でメダル獲得の夢がある。

18年6月、日本対イタリア 後半、突進するレメキ・ロマノラバ
18年6月、日本対イタリア 後半、突進するレメキ・ロマノラバ

携帯電話を持つレメキの手はぎこちなかった。来日1年目のシーズンが終盤となった2010年。現在の妻、恵梨佳さん(32)とのメールは「微妙な感じ」だった。「会話はGoogle(笑い)。日本語はそんなにしゃべれないし、奥さんもあの時は英語が全然。お互い頑張った」。11年のマツダ加入で東京から広島への転居が決まると「一緒に行こう」と切り出した。

「いいよ、大丈夫。俺の人生だから(両親が)ダメでも結婚するから大丈夫」

急展開による不安で涙を流す恵梨佳さんを説き伏せ、初めて相手の両親に対面。移住先のオーストラリアに残した自身の家族にも「大丈夫」と伝えた。「俺の性格は『これがやりたい』となったら、絶対にやる」。12年11月に結婚。息子3人の子宝に恵まれている。

恵梨佳夫人、3人の子供たちと写真に納まるレメキ
恵梨佳夫人、3人の子供たちと写真に納まるレメキ

初来日から、まもなく10年。ニュージーランドのオークランドで生まれたレメキは、4歳でラグビーを始めた。13歳まではFWで「NO8で毎回、トライを取っていた。あの時はガリガリだったから」と当時から突破力が武器。高3となり家族全員でオーストラリアへ移住すると、ランコーン高のCTBとして「楽しかった」とボールを追った。

転機は20歳だった08年11月。代理人に「キヤノンからオファーが来た。日本は住みやすいよ」と伝えられ「じゃあ、行きま~す」。ニュージーランドとオーストラリアしか知らない青年は、日本行きを即決した。

「日本のイメージはスモウとサムライ。『みんなデカい』と思って日本に行ったら、ちっちゃかった」

未知の国になじむのも早かった。キヤノンでは仲間から焼き肉やすしへ誘われ「人がむちゃくちゃ大好きになった」と目を輝かせる。文化の違いも「市役所に行って、紙1枚忘れたら『今日は手続きができない』ってなるでしょう? その時は『どっからどう見ても俺だから、いいだろ!』ってたまになるけれど、それぐらい。やっぱり日本は最高だよ」と笑う。来日1年目で日本で暮らす決意を固め、恵梨佳さんとのやりとりで語学も急成長。14年には日本国籍を取得した。

ジャパンへの思いが芽生えたのは13年3月、テレビで見た7人制の国際大会「東京セブンズ」だった。スペースが広く、1対1の要素が強い7人制に「俺、これなら日本代表になれる」。16年リオ五輪4位の原動力となり、3カ月後の11月に15人制初キャップをつかむと、新しい夢ができた。

「リオに向けての合宿で、チームというより、家族になった。チームメートのため、日本のみんなのために頑張ったのが五輪。今度はW杯でやりたい。それでまだチャンスがあるなら、セブンズをやりたい。東京五輪でメダルを取りたい」

遠い母国から見つめたサムライの国に、尽くす覚悟はできている。【松本航】

◆レメキ・ロマノラバ 1989年1月20日、ニュージーランド・オークランド生まれ。トンガのプロボクサーだった父を持ち、4歳でラグビーを始めた。高3で移住したオーストラリアのランコーン高を卒業。09年に来日してキヤノン、マツダ、ホンダでプレー。7人制日本代表を経て、16年秋のアルゼンチン戦で15人制の初キャップ。愛称は「マノ」。家族は妻と息子3人。172センチ、92キロ。

◆代表でのプレー資格 現在の条件は(1)当該国・地域で出生している(2)両親、祖父母の1人が当該国・地域で生まれている(3)36カ月継続か通算10年にわたり当該国・地域に居住している。継続居住期間については20年12月31日以降、36カ月から60カ月に延長される。