日本代表FB山中亮平(31=神戸製鋼)は、大阪・東海大仰星高(現東海大大阪仰星)3年時に全国制覇を果たした。紆余(うよ)曲折を経て、初のワールドカップ(W杯)を目指す大器の高校時代を、土井崇司監督(59=現東海大相模副校長)が振り返った。
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身長185センチのSO山中が仲間にほえた。「お前、何してんねん!」。パスの先に、味方がいない。ボールが地面に転がり、東海大仰星Bチーム(2軍)の司令塔が文句を言う度に、土井は「分かってるやん」とうなずいた。当時を「夏合宿の朝にそんな言葉が出ると、昼から1軍で使う。だって自分が動いて、チームとしてトライが取れそうな場所に、味方が来ないことを怒っている。でも、亮平に言葉では伝えません」と懐かしげに思い返した。
果たして1軍に抜てきすれば、同じことが起きた。
「ちょっと強いところとやらせると大失敗する。自分が目立ちたい。キック蹴るとモーションがでかくて、チャージを食らう。そうなるとロングキックの場面でハイパント。こっちは『何してんの?』となる。それでまた、下に落ちる」
他の選手を目的に視察した会場で、土井自身が中3の山中に「何じゃ、アイツ」と衝撃を受けた。「キックをするとボールに回転をかけずに『バコ~ン』って飛んでいく。高校に入ったら自陣のインゴールから蹴って、相手のインゴールを越えた」。それほどの逸材だったが、甘やかさなかった。
自分が目立とうとする山中に対し、徹底的に向き合った。2年時はゲームの理解度にたける1学年上の米田恭平を、最後まで大事な試合のSOで使い続けた。周囲には「それだったら山中をCTBで使ったらいい」と言われた。だが「1セン(SOに近い側のCTB)で使うと試合に出ることに満足する。将来、必ず日本代表のSOに育てたかったから、SO以外は一切やらせなかった」。米田にあり、山中にない「ゲームの作り方」を、土井はあらゆる手法で求めた。
山中の振る舞いはゆっくりとだが、確実に変わった。海外ラグビーの動画を用い「亮平、この場面、お前やったらどうする?」と尋ねても、1年時は「えっ? 知りません」。だが、最上級生になると「あぁ、それやったらこうします」と答えた。4、5時間にも及ぶ、伝統の試合想定ミーティングでも「ちゃうやん。ここで奥に蹴って、俺らのFWで押し切った方がトライ取りやすいやん」。チームを勝たせる方法を、自ら味方に説くようになった。
1年前にベンチを温めていた男は3年の冬、15年W杯代表フッカー木津武士(日野)らと日本一に輝いた。早大、神戸製鋼と進み、昨夏から始めたFBで株を上げる山中は「しっかりとスペースを見つけたり、相手の(防御の)上がりの判断は、高校の時からみんなと話をしてきて生きている。いつも周りが支えてくれて、僕はのびのびとプレーできた」。31歳で初のW杯を目指す教え子を、土井は「体は大きいし、キックも飛ぶ。FBでも亮平はゲームを読める。日本を考える亮平で、W杯の勝利に貢献してほしい」と見守っている。(敬称略)【松本航】