恩師だから知る、ダイヤの原石の顔がある。CTB中村亮土(28=サントリー)は鹿児島実業高入学後から本格的に競技を始め、たゆまぬ努力で日本代表まで上りつめた。中学時代まではサッカー少年だったが、何事も前向きにとらえ、負けず嫌いな性格で急成長。当時指導した富田昌浩コーチ(41=現監督)が、教え子の転機を明かした。(敬称略)

ラグビー日本代表のCTB中村亮土の恩師の富田昌浩監督
ラグビー日本代表のCTB中村亮土の恩師の富田昌浩監督

09年の花園1回戦。2点差で国学院栃木を追いかけていた鹿児島実は、ラストプレーで逆転のチャンスを得た。敵陣10メートルライン、中央やや左からのPG。すでに3本のPGを成功させていたSO中村の右足に運命は託された。しかしキックは外れ、鳴り響く引退を告げるノーサイドの笛。富田は「亮土のキック力、精度なら問題なかった。ただ右足のケガなのか、精神的な問題なのか。それは聞いてないので分からない」と当時を振り返る。

大阪から鹿児島へ戻り、チームは新体制となった。だがグラウンドには、もう高校でプレーする必要のない中村の姿があった。10メートルライン、中央やや左にボールをセットし、ひたすらキック。「こいつ感じてるなと。負けさせてしまったと。僕らには言わないけど。そういうところですかね、あいつのすごいところは」。失敗を認め、苦い経験を乗り越えようとする姿勢がまぶしかった。

努力を惜しまなかった。中学までサッカー少年だった中村は、パスがうまいわけでもなく、足が速いわけでもなかった。それでもサッカーで鍛えた骨太な太ももを武器に、タックルされてもすぐに倒れないWTBとして、1年の夏前にベンチ入り。2年からSOとなりチームの司令塔に。キックの重要性を説くと、中村は素直に聞いた。「毎日居残りで1時間半ぐらいずっとやっていた。帰れって言っても帰らなかった。ラグビーのセンスはなかったけど、努力のセンスがあった」と富田は感心する。

日本代表CTB中村亮土(19年8月3日撮影)
日本代表CTB中村亮土(19年8月3日撮影)

3年時に九州選抜に選ばれた中村は、本職のSOではなくWTBとして起用された。「キックを蹴ったかどうか聞いたら『蹴ってないです』って。『でもいい勉強になりました』って」。WTBとしてエリアごとにキック処理をする時のポジショニングを変える経験から、自分がSOの時にどういうキックが有効になるのかに結びつけたという。「言われたことにクエスチョンではなく、まずやってみる。純粋。だからここまで伸びた」と評価する。

口べたで、プレーで語るタイプ。何事にも真剣に取り組み、糧にしてきた。だからこそ、高校から本格的にラグビーを始めたにもかかわらず、ワールドカップ(W杯)の日本代表メンバーの座をつかみ取ろうというところまで上りつめた。「鹿児島ラグビー界の西郷隆盛。日本ラグビー界を変えてくれますよ」。努力の天才が、日本ラグビー界の歴史を塗り替えようとしている。【佐々木隆史】