ラグビー日本代表の主将と監督を務め、16年に胆管細胞がんで他界した平尾誠二さん(享年53)の三回忌を10月20日に迎えます。
現役時代は日本選手権7連覇の中心となり、引退後も指導者として携わり続けたのが西の名門・神戸製鋼。命日の20日まで続く連載「平尾誠二の遺言」の第1回は、神戸製鋼で15季ぶりのトップリーグ優勝を目指し、19年ワールドカップ(W杯)日本大会も夢見る日本代表FB山中亮平(30)を支えた言葉に迫ります。
神戸市東灘区の工場地帯を進むと、人工島の一角に神戸製鋼ラグビー部が汗を流す「灘浜グラウンド」が見える。15年秋、胆管細胞がんとの闘病生活に入っても、平尾さんは通院の合間を縫い、この場所で後輩たちの動きを追った。
早すぎた死から、2年が経過する。大阪湾から吹き込む風が背中に当たる、スタンド最上段の一席。平尾さんの定位置だった席に座った山中は、7年前を思い返した。当時22歳の青年に突きつけられた「空白の2年間」。ボールを触ることのできない日々は、今も鮮明な記憶として残っている。少し肌寒くなった風を真っ白な半袖Tシャツ越しに感じながら、生前の平尾さんの言葉を思い返した。
「我慢しろ」-。
決して忘れることのできないフレーズだ。
「あの時、平尾さんの言葉が一番、ありがたかったんですよ。『お前には将来がある』と言われ、僕は神戸でやっていきたいと思うことができました」
大スターの系譜を継ぐ司令塔として、期待されていた。背負う番号は10か12。同志社大から鳴り物入りで入部した平尾さんと同じSO、CTBだった。今から30年前の88年度から続く日本選手権7連覇の中心に、「ミスターラグビー」はいた。当時の日本ラグビー界の常識は「走り込む人へ投げる」パス回し。それを覆し、人ではなく、空いたスペースへパスを投じた平尾さんは、神戸製鋼から革命を起こした。山中もその偉大さを、十分に認識していた。
大阪・東海大仰星高3年時に花園を制覇し、早大4年時には日本代表初キャップを獲得。順風満帆なラグビー人生に狂いが生じたのは、神戸製鋼へ入部した1年目(11年)の春だった。
「空白の2年間」は突然やってきた。日本代表の宮崎合宿に参加していた4月28日、抜き打ちのドーピング検査による陽性反応の知らせを受けた。
「その時は正直『えっ、そんなことで!?』と思いました。本当にあほらしいことをしてしまったと…」
原因はひげを伸ばすために使用した育毛剤。秋にはW杯ニュージーランド大会があり、社会人1年目でのメンバー入りも期待された男に向く、世間の目は厳しかった。その上、当時の主流だった社員契約ではなく、プロ契約を結んでいた。
「大学から代表に入っていたから、『ラグビーでやっていけるやろう』という自信があったんです」
チームからの暫定的な処分は「自宅謹慎」。後に2年間の資格停止処分が下り、神戸製鋼の方針が固まるまでの4カ月間を、大阪市住之江区の実家で過ごした。1度の過ちを、自分で責める日が続いた。
「家族にも迷惑をかけましたし、今までお世話になった人全員にも迷惑をかけた。正直病むぐらい、きつかったです」
その山中と似た境遇を知るのが平尾さんだった。当時の肩書はゼネラルマネジャー(GM)兼総監督。8月のある日、2人はホテルで顔を合わせた。契約解除も覚悟し、目線が下がりがちだった山中は、平尾さんの優しい声を聞いた。
「お前は2年間、ラグビーができへんけどな、将来のある選手や。まずはしっかり会社で仕事をしろ。俺が必ず、復帰できるようにしてやるから」
平尾さんも前人未到の大学選手権3連覇を成し遂げた同志社大を卒業後、英国留学中の85年に抜群の容姿を買われてファッション誌にモデルで登場。自身に違反の認識はなかったが、当時のアマチュア規定で日本代表を外され、多くの企業からのオファーが消滅した過去がある。それでも声をかけ続けてくれたのが神戸製鋼で、社長就任前の亀高素吉氏(享年86)だった。偶然にも同じ22歳での出来事。その背景があったからこその、声かけだったのだろう。つぶれかけていた1人の新社会人が、前を向いた。
「そこからですね。平尾さんにそう言ってもらえて『頑張らないと。やるしかないな』って思い、切り替えることができました」
ラグビー部は退部。それでも神戸製鋼からは社員契約を提案され、総務部の一員として、午前9時から午後5時半までパソコンに向かった。恩を感じた。
仕事が終わるとおにぎり1個を頬張り、1人で東灘区のジムへ通う日々。ラグビー部の施設には立ち入ることができない。主婦やサラリーマンなど一般の利用客の隣で、毎日2時間のウエートトレーニングに励んだ。社内で顔を合わせる度に、平尾さんは「飯行くぞ」「我慢せえよ」と声をかけてくれた。その度に折れそうな心を立て直した。
「今は、あの2年間をポジティブに捉えています。そりゃあ『あの2年が…』と言う人もいますけれど、僕はそんな風には思わないです。ラグビーをしている以上、一生、あの過去は消せないので」
13年に再入部が認められ、今季は元ニュージーランド代表の世界的SOダン・カーター(36)らの加入で勢いづくチームを支える。悲願の15季ぶりの優勝へ、支えの1つとなっているのが平尾さんへの感謝だ。
「入院している時も、人づてに『山中がいいプレーをしているな』と言ってもらっていることを聞いたんです。『いつも見てくれているんだな』と思っていました。僕が『神戸で優勝したい』って思うのは、そういうところにつながっています。僕らの同期は結構、移籍したりしているんですが、僕自身は『神戸で(ラグビー人生を)終われたらいいな』と思っている。神戸で優勝したい気持ちは強いです」
大学卒業直後の恩を忘れず、神戸製鋼を愛し続けた大先輩と似た感情が、6月に30歳となった山中にも芽生えている。窮地を救う言葉という形で、平尾さんは山中にバトンを手渡したのかもしれない。
18年10月15日、山中は宮崎で行われている日本代表合宿に追加招集された。神戸製鋼での活躍が認められ、プレーヤーとしても19年W杯日本大会を目指す道が開かれた。生前の平尾さんが誘致に尽力した大舞台まで、残り1年。1度はどん底を味わった男が地に足を付け、「空白の2年間」から8年越しの夢を追っている。【松本航】