あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。バスケットボール男子ナショナルリーグ(NBL)レバンガ北海道の選手兼代表・折茂武彦(45)には「1人も欠かせない存在」という恩師が4人いる。高校、大学、社会人、そして日本代表の監督。日本リーグから数えて23シーズン目を迎え、来季は「Bリーグ」挑戦も控える日本バスケ界の“レジェンド”が、世代ごとに教えられ、導かれた道を振り返った。
中学はバレーボール部出身の監督だったので、高校入学時は何もできない選手でした。最初のターニングポイントは、高2。能代工高と日体大でマネジャーを務めた金井(清一)先生との出会いです。
とにかく走らされました。アップで1時間ランニングしてから、3メン、5メン(パスをつなぎながら、コートの端から端まで全力で走る)を1時間。「お前らは能力がないから走るしかない」って。夏合宿では、半分ぐらいの選手が倒れた。練習中1回だけ水を飲めますが、多くの選手が飲みすぎて、次の練習で吐いていましたね。
1500メートルは1年で校内優勝するほど速かったけれど、2年からはダントツ。この年齢でプレーできるのは、金井先生の付けてくれた体力のおかげです。
大学1年からスタートで使ってくれた日大の川島(淳一)監督には、実戦経験を積ませてもらった。選手の感性を大切にしてくれる先生で「あれがダメ、これがダメ」と言わず、良いところを伸ばしてくれた。とにかく言葉遣い、態度、規則、規律が厳しかった。親元を離れてはじめての寮生活。不安だらけで、先輩も怖かった。でも試合に出してもらっていることが自信につながった。
トヨタ自動車の時は、NBAトレイルブレイザーズで(後に永久欠番となる)ドレクスラーらを指導していたジャック・シャロー(故人)が監督に就任し、1つ上のレベルに行けた。初対面で「ディフェンスしなかったら試合に出さないからな」と言われて「なんだお前」って思いましたけどね(笑い)。
普段は温厚だけど、バスケでは熱い監督で、気に入らないと練習中にボールを蹴っ飛ばして「俺は帰る」って帰っちゃう(笑い)。でも僕の良いプレーだけを編集したビデオを作ってくれたこともあったし、スクリーンの使い方やシュートのタイミングも細かく指導してくれた。当時は試合でシュートを外すと落ち込んでいましたが、彼に「お前には10本、20本連続で入れる力がある。迷いなく打て」と言われてから、落とすことを全く気にしなくなった。だからここ(現役最多8773点)まで得点を重ねてこられた。
そして今、北海道でプレーしているのは、ジェリコ(パブリセビッチ監督=千葉)がいたから。36歳でトヨタでも出番が減り「そろそろ引退かな」と思っていた時に、世界選手権(06年)の日本代表に呼ばれた。監督のジェリコがしつこく「お前だけ特別メニューでやるから」って言うので行ってみると、1度も特別メニューはなし(笑い)。初日のアップで足がもつれて、練習では転んで、若い選手には「大丈夫ですか?」って心配されました。
ところが全部の練習に取り組んで、本番になると全試合スタメンで2ケタ得点。「俺、できるじゃん」って。ジェリコも「俺のメニューについてこられたんだから、あと3年はいける」と言うので、それなら出場できないチームじゃなくて、北海道でプレーしてみようと。4人の恩師が1人でも欠けていたら、絶対に今の自分はないですね。【取材・構成=中島洋尚】
金井さん ヒョロッと大きくて、手が長い。バスケットに適した体だなあというのが第一印象。当時は私も新卒で、能代工高や日体大で学んだバスケットを指導しようと一生懸命。厳しい練習についてこられるスタミナのある選手でした。
日大の川島監督 偶然見に行った大会で活躍している彼のシュートタッチを見て「理想的な選手」だと思い、入学後すぐにスタートで起用しました。人間性も素晴らしく、今も後輩たちの大きな目標であり続けています。
千葉パブリセビッチ監督 期待していたのは経験とシュート力でチームを安定させること。若手に負けず、全てのきついトレーニングをこなした彼の答えは「若いのが疲れていないのなら、俺も疲れてない」。本当に素晴らしい人で素晴らしい選手です。50歳までプレーを続けられますように。
◆折茂武彦(おりも・たけひこ)1970年(昭45)5月14日、埼玉県上尾市生まれ。埼玉栄高2、3年の総体に出場し、3年時は8強&得点王。日大では主将だった4年のインカレで優勝&MVP。93年トヨタ自動車入り。同年日本代表に初選出され、02年は主将を務めた。06年の世界選手権で4年ぶりに代表復帰し、同年アジア選手権で代表引退。07年レラカムイ北海道移籍、現在レバンガ北海道の選手兼代表。家族は妻と長男。190センチ、77キロ。