東京対柏 前半、CKを蹴る東京MF中島(撮影・野上伸悟)
東京対柏 前半、CKを蹴る東京MF中島(撮影・野上伸悟)

<手倉森JAPANリオで金託された18人(17)>

 ブラジルの芝生の上で夕日を浴び、泣きながら何度も走り続けた。MF中島が中学3年になる直前の春休み。Fリーグ名古屋の元監督、真境名(まじきな)オスカー氏(52=現ビークス東京レディース監督)から、自身2度目のブラジル行きを誘われた。同氏から小学校時代に指導を受けたFUNフットサルクラブの日本人チームの一員として、当時所属していた東京Vジュニアユースに許可をもらい、サンパウロ近郊アルジャへの遠征に同行した。

 同氏は「狭いところでもドリブルができるし、翔哉はハートが違う。ブラジルでも『あの12番(中島)は1人だけ違うな』ってよく言われましたよ」。名門サンパウロやコリンチャンスの下部組織と対戦しても、1人際立った。中学2年生ながら高校生チームにも入ってプレー。しかし試合中に守備を怠ったことを指摘され、受け入れなかった中島は交代を命じられた。

 「なんで交代しなくちゃいけないんだ!」。別のコーチに言い寄ってケンカになった。見かねた同氏は「もう試合に使わない」と伝えた。するとその日の夕食に中島だけ姿を見せない。サッカーをできないことを悔やみ、グラウンドで1人涙を流して走っていた。深夜、同氏の部屋にきて頭を下げると、翌日にはちゃんと守備にも奔走する姿に変わっていた。

 2週間の遠征を終え、帰国するときには「残りたい!」と本気で言った。それほど王国でのサッカーは楽しかった。帰国後に実感した。「なんかサッカーがうまくなっているな」と、悔し涙の分だけ成長。だけど次にブラジルで流すのは、日の丸の10番を背負い、メダルをもたらしたうれし涙だけだ。【栗田成芳】

 ◆中島翔哉(なかじま・しょうや)1994年(平6)8月23日、東京都生まれ。6歳でサッカーを始め、東京Vの下部組織に加入。高校3年の12年10月にプロ契約を結び、直後のJ2栃木戦でJリーグ史上最年少となる18歳1カ月28日でハットトリック達成。14年1月に東京に完全移籍し、すぐに富山へ期限付き移籍。同年8月に東京復帰。164センチ、64キロ。