ONの後を受け、巨人の混乱期を救い続けた名将がいる。2006年(平18)2月9日に心不全のために亡くなった藤田元司氏は、監督として「長嶋解任」翌年の81年と「王解任」翌年の89年から2度指揮を執り、ともに就任1年目に日本一に導いた。4度のリーグ優勝、2度の日本一を誇り、80年ドラフトでは4球団が競合した原辰徳監督(当時東海大)を引き当てた。
キャンプ中だった原監督、選手らも駆け付けた06年2月15日の告別式で、川上哲治氏(故人)が読んだ弔辞にはこんな一節があった。
「長嶋君の後を受けて、大逆風の中で監督になると、見事日本一となって巨人軍の大ピンチを救ってくれた。戦力もどん底、火中の栗を拾う損な役回りは、君にしかできないことだった。さらに王監督の後も同じ。人気監督のあとは、誰が見ても腰の引ける損な役割だった。だが、この時も『友達がちょっと疲れたので、その代わりを務めるだけです』と、逆に王君を気遣うさわやかなコメントをしていた。悲しいけれど、涙を見せずに君を送ることにする。どんなにつらいときでも、笑顔を忘れなかった君への、それが一番の供養だと思うからだ」
藤田氏は慶大、日本石油を経て巨人入りし、1年目に17勝を挙げて新人王。58、59年には2年連続MVPに輝いた。80年の「長嶋解任劇」を受けて監督に就任。重圧を背負いながら1年目の81年に西本、江川の両エースを軸に、打線も新人原を起用して日本一。王監督を継いだ第2次政権時には、斎藤、槙原、桑田の3本柱など投手王国を築いた。混乱期に先頭に立ち、逆風の中で結果を残した。
グラウンドへと続く東京ドームの一塁側通路で、原監督は藤田氏の話になると足を止めた。80年ドラフトで4球団が競合したクジを引き当て、指導者としての教育も施された恩人。球界では最も早く、親族から訃報を知らされた。
「とても大きな存在です。監督であり先輩でもあり、何かこう、オヤジさんみたいなところもあって。頼りがいもありました。すごく大きな器を感じる、素晴らしい先輩でしたね」
藤田監督の下、1年目のキャンプでは三塁ではなく二塁に初挑戦した。
「今まで痛めたことなかったんだけど、違う動きをすることで肩がちょっと痛くなったんですね。その時に僕の宮崎キャンプの部屋に来てね。『おい原、肩を見せてみろ。はだかになれ』と。特効薬みたいな薬をつけてマッサージしてくれて。厳しさもありましたし、温かさもありましたね」
「厳しさ」と「温かさ」。今の原監督自身の采配にも通じる部分がある。世界一に輝いた09年WBCでは、シャンパンファイト前に「本当にお前さんたち、強い侍になった」と音頭をとった。原監督が選手を呼ぶ時に愛用する「お前さん」も、もとは監督、選手時代に藤田氏からかけられた言葉。「お前」でも「君」でもない絶妙なバランスに「すごくいい言葉だなと思った」と胸に響いた。
藤田氏が指揮した90年に14勝(6敗)を挙げた宮本投手総合コーチは「先発は完投、という中で育った。ピッチャー主導の野球を教えていただいた」と感謝する。原監督、コーチ陣ら現在のチームには数多くの教え子が在籍する。逆境に立ち向かった姿は受け継がれている。【前田祐輔】
◆藤田元司(ふじた・もとし)1931年(昭6)8月7日、愛媛県生まれ。西条北から慶大に入り、54年春に無安打無得点。日本石油では56年都市対抗優勝。57年巨人入団し、同年新人王。58、59年は2年連続でMVPと最高勝率。59年は最多勝と、ベストナインも受賞。65年引退。現役通算364試合、119勝88敗、防御率2・20。その後巨人、大洋でコーチを務め、81年に監督で巨人復帰し、いきなり日本一。81、89年正力賞受賞。96年野球殿堂入り。現役時代は173センチ、64キロ。右投げ右打ち。06年2月9日、心不全のため74歳で死去。