2013年センバツ。東日本大震災を乗り越えて、いわき海星(福島)が21世紀枠で甲子園に春夏通じて初めて出場した。同校は海に隣接し、校舎もグラウンドも大きな津波被害を受けた。震災直後に入学し、左横手投げのエースとしてマウンドに上がった鈴木悠太さん(19)は、がれき拾いから練習を始めた。数々の苦労を重ね、考えてもいなかった夢の舞台に立った。

13年3月、センバツ1回戦の遠軽戦に登板するいわき海星の鈴木
13年3月、センバツ1回戦の遠軽戦に登板するいわき海星の鈴木

 絶望からのスタートだった。鈴木は鮮明に入学直後を覚えている。いわき市内の実家は海から離れていたため被害を免れたが、いわき海星は津波で校舎の1階部分が流された。野球部はバットもボールも失い、グラウンドはがれきと砂で覆われていた。

 鈴木 中学を卒業して野球部に入ると決めていたんです。正直、野球はできないと思った。最初の練習はがれき拾い。グラウンドには包丁があった。

 近隣の小名浜高で入学式を行い、同校のグラウンドを借りて練習していた。

 鈴木 5月中旬ぐらいからキャッチボール。家でボールを握って感触は確かめていました。何とか我慢して、いつか野球ができる、と信じていました。いわき海星で練習ができるようになったのは6月でした。

 グラウンドにはがれきがまだ残り、マウンドもなかった。

 鈴木 スライディングをすると、ガラス片が土の中にあって腕に切り傷ですよ。マウンドは壊れたプレートをくぎで打ってつくった。工夫しないと練習ができなかった。

 1年生の冬に左腕では珍しい、上手から横手に投げ方を変えた。打者に球の出どころが見づらく、速球とスライダーが生きた。2年生秋の県大会では2年連続16強入りの原動力になった。その年の12月、センバツの21世紀枠候補に選ばれた。環境面のハンディを抱えた中での成績が認められた。

 鈴木 入学前は好きな野球をやりたいだけで、甲子園なんか本気で考えていなかった。21世紀枠候補になって行けるのかな、と思いました。普通にグラウンドを使っている学校には負けたくなかった。自分たちが負けてもグラウンドのせいにしたくなかった。言い訳になっちゃうじゃないですか。その強い気持ちが実ったと思うんです。

13年、春1回戦のスコア
13年、春1回戦のスコア

 13年1月、21世紀枠として晴れてセンバツ出場を決めた。だが決定後毎日、震災を乗り越えたことで、メディアの取材攻勢に遭った。

 鈴木 練習にならない日があった。自主練習もできず、イライラする時もあった。でも今思うと甲子園の試合前取材とか、いい経験になった。めったにないことですから。

 遠軽との1回戦は0-3で敗れたが完投した。試合時間は戦後最短の1時間16分。引き締まった一戦だった。

 鈴木 短かったのは全然分からなかった。無我夢中でしたから。あと30分ぐらいはグラウンドにいたかったかな(笑い)。勝てば良かったけど、勝ち負け関係なく幸せでした。甲子園に行ったことは、ずっと名前が残るし。

 センバツでの奮闘に、ある大学野球部からの誘いがあったという。それでも鈴木は地元に残った。いわき市内の企業に就職して、車、トラックの整備をしている。野球は軟式で楽しんでいる。

 鈴木 いわき海星に1カ月に1回ぐらい、練習を手伝いにいきますよ。

 あのグラウンドで、数え切れない苦労を重ねてつかんだ甲子園切符。地元愛を貫きながら、後輩たちを見守っている。(敬称略)【久野朗】