【ブルーペナント〈3〉】堂安律「セレッソを1秒で断る」小学生時代に培われた反発心

「ブルーペナント」。その存在を知っている人はどれぐらいいるだろうか。

サッカー日本代表選手が初めて国際Aマッチに出場した際に、「育成年代に特にお世話になった指導者を申告」し、記念となるペナントを作成して贈るもの。

日本サッカー協会(JFA)が「育成年代の指導者への敬意として」行っている日本代表・育成指導者表彰制度のことである。

本企画では、この「ブルーペナント」を送られた指導者を追うことで、日本代表選手の源流をたどっていきたい。

第2回となる今回は、MF堂安律(25=フライブルク)が贈ったブルーペナントに注目した。

サッカー

日本対スペイン 後半、同点ゴールを決める堂安(中央)(撮影・江口和貴)

日本対スペイン 後半、同点ゴールを決める堂安(中央)(撮影・江口和貴)

2022年ワールドカップ(W杯)カタール大会の初戦でドイツ代表を破り、同3戦目ではスペインも撃破して世界中に衝撃を与えた日本代表。

堂安はその2戦で後半からピッチに立ち、得意の左足で2度同点弾を決め、日本中に歓喜をもたらした。

ガンバ大阪アカデミーから昇格したトップチームで活躍し、オランダやドイツでプレーしてきたレフティーは、壁にぶつかりながらも乗り越えて成長を遂げてきた。

そのサッカー人生に大きな影響を与えたのが、小4からプレーした西宮少年サッカースクール(SS)での日々と、そこで出会ったコーチだった。

通称「SS(エスエス)」と呼ばれる兵庫の名門クラブ。

当時、堂安少年がどんな選手だったのかを探るため、当時のコーチで堂安からブルーペナントを贈られた早野陽氏(40)を訪ねた。

将来の日本代表と出会った時、コーチは指導初心者だった

「(2022年の)W杯の期間中は、8時間ぐらい電話していることもあったぐらいですよ」。

堂安の恩師として知られ、これまでにも事あるごとにメディアからの取材を受けてきた早野氏は現在、自ら立ち上げた兵庫・西宮市内で活動するクラブチーム「JUEGO(フエゴ)」の代表を務めている。

日本代表MF堂安律(右)と小学生時代の早野陽コーチ(写真提供・早野陽さん)

日本代表MF堂安律(右)と小学生時代の早野陽コーチ(写真提供・早野陽さん)

「堂安を育てた指導者の1人」とされる早野氏だが、1984年生まれの40歳とまだ若い。

1998年生まれの堂安とは14歳しか違わず、その口から何度も出るのは「育ててもらったのは僕の方」という言葉。

よくある年の離れた指導者と選手とは少し違った関係性が、今も続いている交流に大きく影響していることがをうかがわせた。

父の潤さん(72)が指導者をするサッカー一家に生まれた早野氏は、幼稚園児の頃には父がコーチを務めていた西宮SSでサッカーを始めた。

その後は中学、高校でもプレーし、大学2年にけがで引退するまでボールを追った。

その後すぐにサッカー指導者に道を歩み始めたのかと思いきや、それはもう少し後のことだった。

「いろんな職を転々とした」

知人グループとイタリア料理店やお好み焼き店の運営をしたり、工場で働いたり、建築現場で働いたりとさまざまな仕事に従事した。

堂安律から送られたブルーペナントを持つ早野陽さん(左)と早野潤さん(写真提供・早野陽さん)

堂安律から送られたブルーペナントを持つ早野陽さん(左)と早野潤さん(写真提供・早野陽さん)

そんな中で2008年に父から「西宮SSの平日練習を見てもらいたい」と依頼されたことが、転機となった。

「(指導は)やったことないけど、やろうか」

快諾して、コーチ業に足を踏み入れることになった。

そんな経緯で指導を始めることになった25歳の新米コーチは、小学4年生を担当することに。

そこにいたのが、堂安だった。

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スポーツ

永田淳Jun Nagata

Aichi

1980年(昭55)9月9日、愛知県生まれ。小3でサッカーを始める。法大卒業後、商社、フリーランスのサッカーライター、商社、外資系半導体メーカーでの勤務をへて、23年4月に日刊スポーツ新聞西日本に入社。日本サッカー協会B級ライセンス保有。日本アンプティサッカー協会技術委員長。X(旧ツイッター)は@j_nagata