元広島の川島堅さん(48)は、東京・小平市で整骨院を経営している。西武多摩湖線の一橋学園駅から徒歩3分ほどの場所に「一橋整骨院」がある。
- 経営する一橋整骨院の前に立つ川島さん
川島さん(以下、敬称略) 赤ちゃんからお年寄りまで、幅広い方が来てくれます。スポーツをしている中、高校生もいますよ。機会があればトレーニングの方法なども指導します。
東亜学園ではエースとして2年連続で甲子園に出場した。3年だった1987年(昭62)にはベスト4まで進んだ。川島さんは2試合を完封し、34イニング無四球という投球を見せるなど抜群の制球力を誇った。
当時のマスコミでは「甲子園史上最も美しいフォーム」などと評された。
今回の取材に臨む前、あらためて当時の映像を見た。ゆったりとしたリズムで、まるで力を入れていないようなフォームから、回転のいいボールが捕手のミットに収まる。
確かに美しいフォームだった。
川島 自分で試行錯誤しました。本屋さんで本を読んだり、プロ野球をテレビで見て基本的なところを学びました。基本をマネしていたら基本通りのフォームになりました。
プロでは、その美しいフォームがむしろ欠点になってしまった。フォーム変更を余儀なくされた時期もあった。ドラフト1位で広島に入団するも、7年間でわずか1勝に終わった。
整骨院の院長として多忙な毎日を過ごす川島さんに、ここまでの日々を振り返ってもらった。
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川島さんは東京・練馬で生まれ、石神井東小2年で野球を始めた。「ゴールデン富士」というチームに入った。
川島 私は1人っ子で兄弟がいないから、遊ぶ相手がいない時は1人で壁当てをしていました。父が「そんなに野球が好きならやってみるか?」と勧めてくれ、知り合いが監督を務めているチームに入りました。私の小学校には野球チームがなくて、自宅からはちょっと離れている場所のチームでした。
4年になると小学校にサッカーチームができ、そこにも入った。
川島 やっぱり同級生とやるのは楽しいですからね。でも、試合の日が重なってしまうでしょう。どちらか選ぶ必要があって、先に始めていた野球を選んだ。サッカーも大好きだったんですよ。今も見るのは好きです。
小学時代は捕手だった。
川島 体が大きくて肩も強かった。小学生だと普通は二塁送球もワンバウンドとかツーバウンドでしょう。でも、私はピッチャーの顔の横を通るノーバウンドの球を投げていた。盗塁してくる子はいませんでしたね。
強肩を認められていたが、投手に起用はされなかった。
川島 ちょっと太っていましたからね。いわゆるドカベンタイプのキャッチャーでした。
南ケ丘中学時代は主に外野を守った。
川島 私は打つ方が好きで外野を希望しました。たまにピッチャーもやったけど、おもしろくなかった。ストライクは入らないし、他にエースもいましたからね。
それほど目立った存在ではなかった。
川島 クラブ活動の一環で、高校でも野球をする同級生は少なかったぐらい。誰も私がピッチャーで甲子園に行ったり、プロになるとは思っていなかったでしょう。本人もビックリですから。
ただ、高校でも野球を続けようと顧問の先生に相談した。
川島 有名な選手でもないし、高校から誘いがあるわけでもない。ただ、4番で肩も強かったし、高校でもやりたいと相談した。そこで東亜学園を勧められた。もう1校の候補もありました。シニアリーグで野球をしていた幼なじみの同級生を誘いにきた高校があって、その時に中学の先生が私を勧めてくれました。幼なじみの「おまけ」ですね。彼と一緒に行きたい気持ちもあったので迷いましたが、両親と相談して自宅に近い方がいいだろうと東亜に決めた。東亜は自宅から30、40分もあれば着きましたから。
入部直後に新入生が1人ずつあいさつした。名前と出身中学、そして希望ポジションを表明した。
川島 私は「外野手希望です」と言いました。そうしたら隣に座っていた監督(上田滋氏)が「お前はピッチャーだよ」と言った。「ええっ?」と思いましたよ。その場は苦笑いするしかなかった。だって中学でもほとんど投げていないし、硬球を触るのも初めて。変化球はまったく投げられませんでした。
監督は、投手としての素質を見抜いていた。
川島 分かりません。後々に結果が出ていますから、聞けば「そうだ」と言うでしょうけどね。
投手に転向した当初は戸惑うばかりだった。
川島 1年生の頃は走ってばかり。たまにブルペンで投げても、ボールがどこにいくか分からない。もう、ひどかった。私がブルペンに行くと、先輩のキャッチャーがイヤな顔をするのが分かるんですよ。それがプレッシャーで私もブルペンに行くのが気が重かった。同級生のキャッチャーがいるとホッとしました。
甲子園で抜群の制球力を誇った姿からは想像できない。
川島 1年の夏の合宿だったかな。紅白戦で5者連続四球を出しました。そうしたら監督に「そのままブルペンに行け」と言われて、投球練習をした。午前中だったんですけど、そこから昼食もとらないで午後5時まで投げ続けた。監督も付き切りでした。何球投げたのかな。もう何百球どころじゃないでしょうね。
やはり大きな期待を寄せられていたのだろう。1年夏、そして秋もベンチ入りはしたが、公式戦で登板の機会はなかった。2年の春はベンチから外れた。
川島 この頃…2年の4月ごろから急によくなりました。シート打撃に登板しても、バットにも当てられなくなった。理由? 自分でも分かりません。1年間、投手をやって体も強くなり、力がついてきたのでしょうか。チームメートからも「何かやったのか?」と聞かれました。いろいろなうわさも立った。「あいつは夜、駅の周りを走っている」「秘密のトレーニングをやっている」とか。いや、何もやっていません。練習は厳しかったですから、そんな余裕はありませんでした。
- 1987年夏の甲子園で登板する東亜学園・川島堅投手
練習試合で実績を残すようになり、主力投手として扱われるようになってきた。夏の西東京大会は背番号11ながら、上田監督から「勝ち上がったらお前を中心にいくぞ」と宣告されていた。
初戦となる南平との3回戦で出番は巡ってきた。3回2死からリリーフ。これが公式戦の初登板だった。この試合を4-2の僅差で勝利すると、以後は川島さんがマウンドに立ち続けた。
川島 隠し玉みたいなものですよね。私もただ夢中に投げていました。
日大三との決勝戦は5回まで7-2とリードしながら、6回に1点、7回に1点、8回にも1点を奪われ、じわじわと2点差に迫られた。だが、9回裏を3者凡退に抑えて優勝した。東亜学園にとって初の甲子園出場だった。
川島 途中で3連投もあってヘロヘロでした。決勝はとてもじゃないけど最後まで投げられるとは思っていなかった。少しずつ追い付かれて、いつ交代なのかと思っていました。気が付いたら終わっていた。もうお祭り騒ぎでしたよ。日大三に勝てるわけないと思っていたし、何と言っても甲子園は初出場ですからね。
背番号1を背負って乗り込んだ甲子園では、初戦となる米子東(鳥取)に1-3で敗れた。大会7日目の出番だった。
川島 力が抜けすぎたところがあったな。出番が遅くて、(西東京大会の)決勝から間隔が空きすぎてゆるんでしまった。鳥取より激戦の東京を勝ち抜いてきたんだぞという気持ちもありました。勢いを取り戻した頃には試合が終わっていた。そんな感じです。
新チームになった9月の秋季大会は、ブロック予選の2回戦で敗れた。
川島 新チームになって間もなく、かみ合っていなかったですね。キャッチャーが肩を痛めていて、試合経験も少ない2番手が出ていた。よく1-2で収まったと思うぐらいでした。
翌春センバツは絶望となり、次の狙いは夏になった。
川島 夏まで長い。この間に投げ方を変えました。夏の予選でヘロヘロだったし、秋も早々に負けた。このレベルで点を取られるようでは夏は勝てない。どうせ3年の夏も1人で投げきるだろうし、もう少し何とかしたいと思った。消耗しない投げ方にと工夫しました。
本を読んだり、テレビ映像を見て工夫を凝らした。
川島 この頃は監督にも何も言われなくなっていた。1年の頃は付き切りでしたが、ある程度投げられるようになったら任されていました。自分で試行錯誤しました。足の運び、腕の振り、スピンをかけるにはどうするか。立った時にどこに体重をかけるのか。どこで力を入れるか。いろいろ工夫しました。
投げ方は変わった。のちに「甲子園史上最も美しい」と称されるフォームが出来上がった。(つづく)【飯島智則】