2011年(平23)の第83回選抜大会。東日本大震災発生の激動の春に、当時、東北(宮城)2年の小川裕人内野手(東北福祉大4年)は、3番遊撃手で甲子園の土を踏んだ。開催自体も危ぶまれた中で、チームは被災地の思いを背負って出場。初戦で前年度4強の大垣日大(岐阜)に0-7で敗れたが、小川は“幻の2ラン”を含む2安打を放ち、球場を沸かせた。
- 11年3月、3回裏2死一塁、小川の大飛球は1度本塁打と判定されるも二塁打となる
東北にとって春夏通算40度目の甲子園は、より意義深い大会になった。10年秋の東北大会で優勝。センバツ当確ランプを点灯させた。出場校発表の時も「当然のこと」と受け止めた。だが、大会12日前の東日本大震災で状況は一変した。否応なく、東北第1代表から被災地・宮城代表になった。
小川 (震災時の3月11日午後2時46分は)学校で打撃練習していました。投手の投げた球が揺れて、えぐい変化球だと思った。この日は(宮城沿岸南部の)岩沼海浜緑地野球場で練習試合の予定でしたが、相手の都合で中止になった。後で球場近くの仙台空港の津波被害を知り、本当に危なかった。
秋田・湯沢市の実家と連絡がとれない中、チームは選手寮近くの南中山中に避難。500人以上が避難した体育館で、寝起きをともにしながら物資運びや給水の手伝いをした。16日、学校側は甲子園出場の意向を表明。チームは19日夜に、山形空港経由で大阪入りした。
小川 被災直後は甲子園のことは忘れていました。言える雰囲気でもなかった。(出場は)ないと思っていたので、決まった時はうれしかった。ボランティアの合間に練習しましたが、グラウンドが使えず、室内の打撃中心。風呂に入れず、食事もバナナ1本の時もあって。おなかが減ってしんどかった。
練習もままならない中、選手たちは「被災地のチームとして何ができるか。中途半端なプレーはやめて元気な姿を見せよう」と話し合った。大阪入りの翌20日、甲子園で震災後初めてのグラウンド練習。23日の開会式では大きな声援を受けた。
小川 大阪に入ってからは野球に集中できた。(宿舎で)おいしいご飯も食べられた。責任感も感じ、プレッシャーもあった。開会式は、うれしかった半面、ほかの野球部も苦労しているのに「悪いな」と思いました。
初戦は大会6日目(28日)の1回戦最後。震災発生から18日目だった。東北の三塁側アルプス席では、阪神大震災の95年にセンバツ出場した育英と神港学園を含む兵庫県10校の野球部員らも友情応援した。試合は相手先頭に初球本塁打を許し初回5失点。3回裏2死一塁、小川が右翼フェンス直撃弾を放ち、1度は本塁打と判定されてホームでガッツポーズしたが、二塁打に変更され得点できなかった。
小川 点差があったのでつなぐつもりでした。打球は見ていませんでした。二塁打でも一塁走者はかえっていたのに今でもよく分かりません。でも判定は判定ですから。“幻の本塁打”でいいんです。
- 2011年、春1回戦のスコア
母校東北はこの11年のセンバツ後、甲子園から遠ざかっている。自らも東北福祉大で最高学年になった今春から先発入り。大学生活最後の秋に、甲子園以来の全国出場を目指す。
小川 夏に連続出場できなかった悔しさはある。でも自分たちばかりでなく、宮城のどのチームも同じだった。あの甲子園では、どれだけ恵まれているかを感じることができた。小さな事でも感謝できるようになりました。今でも高校野球の力は、すごいと思います。(敬称略)【佐々木雄高】