1990年(平成2年)2月7日。
日本ボクシングの歴史が再び動き始めた日である。
WBC世界ミニマム級タイトルマッチが行われた東京・後楽園ホールは、超満員3500人の緊張感と期待で充満していた。
当時、国内のボクシングは冬の時代。日本のジム所属選手の世界挑戦は21連続失敗という惨状で、人気も低迷していた。その最後の切り札が、同級7位の大橋秀行(ヨネクラ)だった。
12勝中8KOを誇る24歳の強打のカウンターパンチャーは『日本ボクシグ復活』という重い十字架を背負い、ライトフライ級から階級を下げて、3度目の世界戦のリングに上がった。
王者の崔漸煥(韓国)は階級を下げて2階級制覇を達成した猛者。初回から白熱の打撃戦になった。
勝負が決したのは9回1分すぎ。大橋の左フックが崔の脇腹をえぐり上げると、王者はキャンバスに両手を付いてダウン。立ち上がった崔のみぞおちに、再び大橋の左フックが決まった。鋭利な刃物で刺されたように、王者は苦痛の顔でリングに沈んだ。
冬の闇に一条の強い光が差し込んだ瞬間だった。
後楽園ホールが「万歳! 万歳!」の大合唱に包まれた。「周囲の期待と世界挑戦失敗の記録はプレッシャーでした。でも、だからこそやりがいがある。最高のチャンス。ついていると思っていました」。新王者の強い信念がコメントに凝縮されていた。
「強いヤツとやりたい」。それが口癖だった。
米倉健司会長は愛弟子を「150年に1人の天才」と呼んだ。その才能を過酷なマッチメークで鍛えて伸ばすのが『ヨネクライズム』。それは大橋の望むところでもあった。
過酷に鍛えて伸ばす
86年12月、わずか7戦目でWBC世界ライトフライ級王者の張正九(韓国)に敵地で挑戦した。
勝てば具志堅用高の9戦目を上回る日本人の世界王座獲得最速記録。しかし、後に防衛記録を15度まで伸ばす韓国の英雄はまさに全盛期。4万人の地元ファンで埋め尽くされた会場は異様な雰囲気に包まれた。
5回TKO負け。惨敗だった。しかし、この修羅場と挫折が、大橋をさらなる高みへと導くことになる。
「もう1度拳を合わせて、どれだけ自分が成長したのかを実感したい」。
『打倒張正九』を胸に刻み、勝つために走り、ショートパンチを磨き抜いた。1年半後の88年6月、大橋は再び張に挑む。
またしても8回TKO負け。だが、タフな王者を右強打でKO寸前に追い込んだ。確かな成長の足跡をリングに残した。
その後、張は王座を返上してフライ級に転向。階級を下げて3度目の世界挑戦で悲願を果たした大橋は、こう振り返った。
「張との2試合の経験が生きた。崔をKOしたショートパンチは張に勝つために、徹底的に磨いていたパンチでした」。そして「防衛記録より、上を狙いたい。3階級制覇したい」と、野心をにじませた。
世界王座奪取から4日後、大橋は東京ドームで統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)の防衛戦を観戦した。会場は後楽園ホールの15倍、5万1600人の大観衆で埋まった。「いつか自分もこんな会場で世界タイトルマッチをやりますから」。彼の夢は大きく広がっていた。それは日本人の夢でもあった。
その夢の前に立ちふさがったのが、後に22連続防衛を果たすリカルド・ロペス(メキシコ)だった。アマ40戦全勝、プロ25連勝中の怪物。90年10月25日の2度目の防衛戦の相手に、大橋は前評判の高いロペスを選んだ。強い者との戦いは、真の最強を目指す大橋にとって必然の選択だった。
5回TKO負け。完敗。自分より強い男がいた。「何としてもロペスともう1度」。天才はいつしか求道者になっていた。
92年10月、崔熙墉(韓国)からWBA世界ミニマム級王座を奪取。しかし、93年2月にチャナ・ポーパオイン(タイ)に判定負けして王座を手放した後、左目の循環障害が発覚し、夢の途中でグローブを吊す。まだ28歳だった。
横浜駅東口徒歩5分
94年、引退会見に臨んだ大橋の顔は晴れやかだった。「本当は30歳くらいまでやりたかった。フライ級でもやってみたかった。でも今思えばよくここまでできたと思う」。偶然にもこの日は世界王座を初奪取した日と同じ2月7日だった。
大橋は2月22日に出身地でもある横浜市内に『大橋スポーツジム』を開設することも同時発表。「米倉会長のような会長になりたい」と語り、同席した同会長と固い握手を交わした。
JR横浜駅東口から徒歩5分の一等地に完成した『大橋スポーツジム』には、オープン当初から約150人の練習生が殺到した。
現役時代に成しえなかった自らの夢を、ジムの会長として教え子たちに託す。そんな思いを胸の奥にしまい、3、4年はジムの経営基盤を安定させることを最優先した。
「楽しい雰囲気にしました。選手と飲み会にも行った。携帯電話で話しをしながらサンドバッグを打つ練習生もいましたよ。後援者に呼び出されれば、夜中でも駆けつけました」。
一方で力を入れたのが興行。地元でオール4回戦の興行を手がけて、地道にノウハウを積み上げた。
「チケットが売れないので、考えたのがパンフレットに3万円で名前を入れる広告。100~200件くらい集めました」。
ジムのオープン初日に入門した練習生のプロデビュー戦の舞台も用意した。ある選手の中学校の同級生たちが応援に駆けつけていた。その中に高校卒業後、大手電気メーカーに就職していた川嶋勝重がいた。
友人の試合に刺激を受けた川嶋は数カ月後、仕事を辞め、千葉からバッグ一つで横浜の大橋スポーツジムに現れた。
21歳。ボクシング経験なし。「会社を辞めて来るなんて、そんな甘い世界じゃない」。大橋会長は渋ったが、内心ではその覚悟と意志の強さに驚いたという。
9年後に川嶋がジム初の世界王者になり、八重樫、井上尚弥、拓真兄弟と続く、世界に向かう大きな波の起動になるとは、この時、大橋会長は想像もしていなかった。
大橋秀行(おおはし・ひでゆき)
1965年(昭40)3月8日、横浜生まれ。横浜高2年時にインターハイ(モスキート級)優勝。専大中退後にヨネクラジム入りし、85年デビュー。軽量級とは思えない強打が武器で「150年に1人の天才」の異名を持つ。86年の7戦目での世界初挑戦はKO負けも、90年に3度目の挑戦でWBC世界ミニマム級王座を獲得。1度は陥落も、92年WBA世界同級王座獲得。94年に現役引退。通算成績は19勝(12KO)5敗。同年に大橋ジムを開設し、4人の世界王者を育てる。10年日本プロボクシングジム協会会長に就任。