笠井信輔が明かす、小倉智昭さんが試食で「おいしい」と言わないことで崩したテレビの不文律
<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>
フリーアナウンサーの小倉智昭さんが12月9日、膀胱(ぼうこう)がんのため77歳で亡くなった。
小倉さんの訃報を受けて、後を追い続けてきた“一番弟子”のフリーアナウンサー笠井信輔(61)に話を聞いた。数々のエピソードは、同11日付の日刊スポーツ芸能面とニッカンスポーツコムに掲載された原稿に書いたが、紙面スペース上、盛り込めなかったエピソードを紹介したい。
小倉さんが1999年(平11)4月のスタートから21年3月の終了まで総合司会を務めた、フジテレビ系「情報プレゼンター とくダネ!」をはじめ、テレビ番組では食をテーマにした企画も少なくない。試食の機会もあり、そこでは大抵、出演者が「おいしい」と肯定的なコメントをするが、小倉さんは「おいしい、おいしい…は、違う」という考えを持っていたという。
小倉さんは、時に「そこまで、おいしい?」「そんなに、おいしい?」と首を傾げることもあったという。そういう時は大体、提供されたメニューが冷めていたりなど、本来、おいしく食べられている時とは違う状態でスタジオ内で供されていた。小倉さんは「誰が作ったの?」と疑問を呈したこともあったという。
笠井は、そこに小倉さんの1つの狙いがあったと明かした。「テレビの世界では(出演タレントに提供する際、メニューが)冷めていることは織り込み済みなんです」と説明。その中、小倉さんは「作り方が違うんだよ」「冷めていたらダメ」とまで言い、スタジオ内で提供するメニューを作るスタッフの間違え、問題を、わざわざ指摘した。
テレビを見ている視聴者は、画面に出ているメニューそのものしか見えておらず、香りや温度などは伝わらない。にもかかわらず、わざわざ、そこまで口にした小倉さんを、笠井は「物事の本質ではなくても、視聴者の興味を追求する人。視聴者が何を求めていたのか、敏感に感じ取っていた人」と評する。その上で「見ている人(視聴者)は、そのこと(食べているメニューが冷めている)が分からないから(あえて言っていた)」と振り返った。スタッフを批判した裏には「お店を批判しているわけではない」という考え方もあったという。
1987年(昭62)にフジテレビに入社し、19年の退社を経てフリーに転向し、アナウンサー一筋37年…。その笠井でも「出されたものを食べて『おいしい』というところから、僕もまだ卒業できないんです」という。自戒の念を込めたように口にした上で、小倉さんを「テレビにおける不文律…テレビと視聴者の間の暗黙の了解というものを崩す人」と評した。
笠井は、小倉さんの訃報が発表された翌10日、朝から古巣・フジテレビの「めざまし8」(月~金曜午前8時)に生出演。自らも出演した「とくダネ!」の後継番組で、後輩の佐々木恭子アナウンサー(52)とともに小倉さんの思い出を語った。「まさか自分が、小倉さんの訃報を、同じ朝の枠のワイド番組で伝えていることが信じられないと佐々木アナと話していました」。その後も日刊スポーツをはじめ、各メディアからの複数の取材に応じた。
その笠井が小倉さんの訃報後、初めて行った仕事が、12月26、27日に日刊スポーツ公式ユーチューブチャンネルで配信した、第37回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞(日刊スポーツ新聞社主催、株式会社石原音楽出版社協賛)の受賞者・作品を発表する「受賞者・作品発表特別番組」となった。笠井は「小倉さんも、とても映画が好きな人だった。天国で見守ってくれていたのではないかと思いながらの、今回は感慨深かったです」と率直な思いを語った。
笠井は、日刊スポーツ映画大賞で選考委員を務め、番組においてもMC、出演者にとどまらず、フジテレビ時代に培ったアイデアを提供するなど製作にも一から関わっている。「このタイミングで、小倉さんが亡くなられるとは思わなかったけれど、何があっても『The Show Must Go On』(幕が1度、上がったら最後までやり遂げる)だから。『いろいろあると思うけど、笠井も突き進んでいけよ』ということだと思います」とも語った。3年目のMCとなる今回の番組での笠井の声には、小倉さんへの魂がこもっている。【村上幸将】