- 興梠(右)や藤春(同2人目)は、遠藤(左)らとともに5つの輪をつくる
<手倉森JAPANリオで金託された18人(最終回)>
メダルへの最後のピースが、手倉森ジャパンに加わった。リオデジャネイロ五輪サッカー男子日本代表は19日、千葉県内で合宿を開始。浦和FW興梠慎三(29)らオーバーエージ(OA)枠の3人も、初めてチームに合流した。高校時代を幽霊部員としてスタートさせるなど、代表クラスとしては異例の経歴を持つ興梠が、奔放さに隠されていた責任感を発揮し、若きチームを引っ張る覚悟を固めた。
湿気の中に暑さの残滓(ざんし)が残る練習ピッチ。興梠はランニングで先頭を走った。「すぐに結果を出すことを求められる立場。そこは十分承知して臨んでいる」と表情を引き締めた。
かつてはとにかく自由、気ままに生きたいと思っていた。幼少時は野球をしていたが、小5からサッカーを始めた。チームを県大会優勝に導く大活躍。しかし上下関係が厳しくなる中学校からは、サッカーに本腰を入れなくなっていた。
高校もそのつもりだったが、受験に失敗。鵬翔高(宮崎)サッカー部の松崎博美監督(65=現同部総監督)が「サッカーをするなら」と救いの手をさしのべてくれた。しかし部活はやはり性に合わない。すぐに幽霊部員状態となった。松崎監督は昼休みのたび、職員室に呼び出して説得。放課後も携帯電話を鳴らした。
根負けした興梠は、1度だけと部活に足を運んだ。松崎監督はトップチームの練習試合を組み、トップ下を空けて待っていた。当時すでに高校選手権7度出場の強豪。その1軍に幽霊部員が入る。周囲は面白いわけがない。パスは来なかったが、興梠は相手数人をドリブルで抜き2得点した。
「今があるのは先生のおかげ」。興梠は鵬翔高で勝つ喜びに目覚めた。「自由」と引き換えにしてでも勝ちたいと、真剣にサッカーに打ち込むようになった。
今回五輪出場を決めた時にも、松崎監督が背中を押した。鹿島在籍当時、セリエAのメッシーナからオファーが来たが、断った。報告すると恩師は「成長する機会をフイにした」と怒った。それを踏まえ、今回は「受けろ」と強く勧めた。
松崎監督は当時を「呼び出せば、毎回必ず職員室に来た。ダルいと言いつつ、ちゃんと話は聞いていた。そこは他のヤツとは違う」と振り返る。実は野球をしている当時から、巨人の川相選手が好きで、バントのマネばかりしていた。自由、気ままなようで、本質はフォアザチーム。恩師の導きで、興梠が国を背負った戦いに臨む。【塩畑大輔】
◆興梠慎三(こうろき・しんぞう)1986年(昭61)7月31日、宮崎県生まれ。鵬翔高から05年に鹿島に入団。08年から先発に定着し、同年10月のUAE戦で日本代表デビューも果たした。13年に浦和に移籍。1トップとして開花し、16年まで5年連続2ケタ得点。15年にはハリルホジッチ監督に高く評価され、4年ぶり代表復帰も果たした。175センチ、72キロ。血液型O。家族は夫人と1女。