【工藤公康の人間学】V直後「今後ですが…」生きてるDNA/勝つためのリーダー論2

プロ野球の現役時代に通算224勝を挙げ、リーグ優勝14度、日本一11度。ソフトバンク監督時代には7年間で通算5度の日本一に輝き「名将」となった工藤公康さん(61)。現在は野球解説、講演会、野球教室などの仕事の合間に、「監督業と農業は似ているところがあります」と、農業に従事しています。

監督業と農業の共通点を見いだし、熱中する理由、魅力とは―。

監督時代には「Plan(計画)Do(実行)Check(測定・評価)Action(対策・改善)」を回してチームを作り、常勝を築きました。成功のポイントとは―。

西武の現役時代には不摂生から体調を崩し「このままの生活をしたら、あなた死ぬよ」と医師に忠告され、大不振のどん底を味わいました。そんな逆境から、どのような考え方で、次の行動へつなげたのか―。

勝てるリーダーになった工藤さんの人間力は、スポーツの指導者、ビジネスパーソンへのヒントが詰まっています。

3回連載の第2話。

プロ野球

◆工藤公康(くどう・きみやす)1963年(昭38)5月5日、愛知県生まれ。名古屋電気高(現愛工大名電)時代には夏の甲子園で長崎西相手にノーヒットノーランを達成するなどベスト4へ進出。1981年のドラフト会議で西武から6位指名を受けて入団。西武からFAでダイエーへ移籍し、その後、巨人、横浜、西武と渡り歩いた。実働29年で現役通算224勝を挙げ、リーグ優勝14度、日本一11度の“優勝請負人"。MVP2度、最優秀防御率4度など数々のタイトルを獲得した。ソフトバンク時代の監督7年間では、5度の日本一に輝き、投手起用など、すぐれた采配で勝利へ導き「短期決戦の鬼」と称された。監督通算勝利は978試合で558勝、378敗42分け。趣味はゴルフで、球界ではトップクラスの腕前だった。家族は雅子夫人と2男、3女。

■第2話の主なテーマ3題

〈1〉PDCAサイクルを回して勝ち続けた工藤さん。当時の貴重な資料、一端も公開

〈2〉マネジメントのロジックは、最初から見えていた地平ではない。ルーツも

〈3〉受け継がれるDNA。2人のキーマンと、根底に流れる勝てる組織のマインド

「性格や行動パターンまで把握」

工藤さんは、PDCAを回して強いチームをつくった。目標、計画を立て、実行する期間などを必ずパワーポイントを活用し、ビジュアル化し、一目で分かるようにしていた。

監督時代、ベンチでイニングの合間には、必ず手帳にメモをとった。「気付きは大事。そこで思っていても忘れることもあるから」とコーチにも意識付けした。

この作業は特徴の1つで、作成した資料がチーム、選手を陰で支えた。

少しだけ資料を見せてもらったことがあるが、敏腕の営業マンが企業とのプレゼンなどで活用する資料よりも分かりやすかった。

棚には「勝つための組織づくりとチーム運営」というタイトルの分厚いファイルもあり、チームと選手の資料は別に区分けされていた。当時のエース千賀滉大、東浜巨、和田毅ら、若手からベテランまで1軍の選手が個別にそろう。

トラックマンという測定機器で、打球の飛距離や方向性、スピン量、打球角度などを計測したデータが細かく収集され、データなどの解析、分析で、課題克服のため、次へのアクションが明確に具体的に示されていた。

数字には表れない原因も探るため、選手との対話も欠かさなかった。時には、たわいもない話をしながら、選手の性格や行動パターンなどを把握し、課題を顕在化できるようにした。

チームの目標、計画を達成するための期間などはロードマップの形になっているといい、現在は企業などの講演で、その演題テーマに合わせ資料をつくり、それを大画面に映しながら話をしていたこともあるほど。

特に練習法は、いかに効果的になるかを重点的に考え、自宅の部屋にはテレビを6台も置き、いろいろな角度から試合、選手のプレーなどを分析していた。

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編集委員

平井勉Tsutomu Hirai

Kumamoto

1967年、熊本市生まれ。1990年に入社し、プロ野球の西武、ヤクルト、巨人などを担当。米ロサンゼルス支局時代には大リーグを担当し、野茂英雄、イチローらを取材した。
野球デスク、野球部長、経営企画本部長などをへて現職。著書「清原和博 夢をつらぬく情熱のバッター」(旺文社)「メジャーを揺るがす大魔神 佐々木主浩」(旺文社)がある。