【河野広一の仕事学】少年時代、誰もいない雨の砂場でつくった宮殿…夢をカタチに/下

世界のトップアスリートと日本の企業をつなぐ―広告業界の仕掛け人「株式会社CIRCUS(サーカス)」社長の河野広一さん(55)が、スポーツビジネスの舞台裏、流儀、極意などノウハウを明かしてくれました。

最近では、ドジャース大谷翔平投手(30)の「お~いお茶」(伊藤園)のグローバルアンバサダー契約を手掛けました。水原一平元通訳の違法賭博問題で一時は暗礁に乗り上げたCMを着地させました。

過去には、クリスティアーノ・ロナウド、元イングランド代表のデービッド・ベッカムらサッカー界のビッグネームと日本企業のCM企画を実現。2022、23年にはメッシ、ネイマール、エムバペらトップ選手が所属したパリ・サンジェルマン(PSG)の「ジャパン・ツアー」日本開催試合を主催するなど、従来型の縦割りを廃し、プロジェクト全体を一貫してサポートする業界の異端児です。

大手広告代理店ではない河野さんが、どのように大物と日本企業をつなぎ、戦略を立て、そして選手を口説いていくのか。3回連載の最終話です。

MLB

◆河野広一(こうの・ひろかず、写真中央)1969年(昭44)6月14日、東京都新宿区荒木町生まれ。八王子東―早大卒、92年に広告代理店ADK(アサツーディ・ケイ、当時は旭通信社)に入社、テレビ局担当、新規開拓営業などを経験し、2004年4月に退社。04年5月に1人で広告代理店の株式会社「CIRCUS(サーカス)」を設立した。大谷らの他にも、ボクシング井上尚弥、フィギュアスケート浅田真央らのCMも手掛けた。趣味はサウナ、ランニングなど。好きな言葉は「諦めない心」。家族は夫人、長女、次女と4人暮らし。167センチ、55キロ。

◆株式会社CIRCUS(サーカス)2005年5月に設立。すべての広告領域を一貫して行う独立系の総合広告代理店で、米国ロサンゼルス、イギリス、香港などにオフィスを広げ、世界のトップのアスリートと日本企業をつなぐスポーツビジネスが得意分野。組織の縦割りをなくし、社員には部署や肩書を付けず、分業化せずに総合力でプロジェクトへ取り組めるシステムにしているのが特徴。従業員は50人、本社は東京都港区麻布台1―5―9。

河野さんのビジネスへのこだわり、企画を立てる上での発想、やり方は、どこから生まれたのでしょうか。

創業した会社は、今年で節目の20周年を迎えました。いまだにプレゼンやマーケティングの最前線の現場に出るプレーイングマネジャーでありながら、一方で従業員50人を抱える経営者です。いろんな失敗を経験している中で、その失敗をどのように糧にしていくのか。

組織の中で現状を打破したい、より良くしたい、変えたいと、もがきながら働いている人もいるはずです。そういうときにどのように考え、どう行動すべきかなど聞いてみました。

■最終話の主なテーマ3題

〈1〉世界最高のNBAプレーヤー&フィクションを例に、諦めない大切さを力説

〈2〉原点は幼少期の砂場にあった。「縦割りの弊害」を排すために起業を選択

〈3〉根幹に流れる理念は近江商人「三方よし」の精神。世界一の夢を抱いて

PSG興行の大失敗

――ビジネスの成功例を聞きましたが、失敗もたくさんあるのでは

河野さんいろんな失敗、挫折を経験しています。成功より失敗、契約交渉でいえば、不成立でボツになった企画は数えきれないほどあります。

これまで大谷さん、ベッカム、クリロナと、うまくいった話をしましたが、その3人にいたっても、交渉が成立しなかった案件は数々あります。

弱小代理店なので、大企業からすれば、大手の方がいろいろな意味で安心できるわけです。プレゼンコンペで、大手代理店にとられ、悔しい思いをしたのは一度や二度ではないです。

――特にCMではなく、興業は難しかったのでは

河野さんそれこそ最近で大きな例でいえば、フランスのプロサッカーリーグ、PSG(パリ・サンジェルマン)の日本での興業ですね。

2022年にはPSGを招聘(しょうへい)し「ジャパン・ツアー」日本での試合イベントを主催。それなりに収益も出して、成功といえるものでした。主催といっても製作委員会方式ですが、メインでやっていました。

しかし、昨年には大失敗しました。PSGと、クリロナが所属したサウジのアル・ナスルFCを日本へ呼んで、メッシとクリロナの世紀の一戦をやりたかったのです。「あの2人の最後の対決になるかもしれない」という思いで企画しました。

結果、22年よりイベントの規模感を2、3倍大きくし、その分の資金を投入しました。

しかし、PSGのメッシが移籍話でいなくなり、エムバペが移籍騒動でチームにはいましたが、来日しなかった。そしてネイマールは来日しましたが、ケガで試合に出なかった。最悪の事態になったのです。

クリロナだけが頑張ってくれましたが、チケット売上収入が上がらず、当初の収支計画には届かず、何億円規模の赤字を出してしまいました。

製作委員会方式ですから、出資を集った会社を含め、各方面に迷惑をかけることになり、すごく責任を感じていました。

たくさんの人が勝ち馬に乗ろうときましたから、何より周囲の冷たい視線、風評がつらかった。「もうあの会社は駄目だ」「あの会社とはかかわるな」など業界の中で烙印を押され、火の粉を散らすように、関係者が離れていきました。

すごく寂しく、あのときの辛い思いは、おそらく経験した人にしか分からないと思います。

ある意味、ビジネスのシビアさを痛感するのが、うまくいかなかった時です。だけど、沈んでいるだけだったらそこまで。そこで終わりじゃないですか。でも僕には家庭もあるし、何より会社で働いてくれる仲間がいるわけです。

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編集委員

平井勉Tsutomu Hirai

Kumamoto

1967年、熊本市生まれ。1990年に入社し、プロ野球の西武、ヤクルト、巨人などを担当。米ロサンゼルス支局時代には大リーグを担当し、野茂英雄、イチローらを取材した。
野球デスク、野球部長、経営企画本部長などをへて現職。著書「清原和博 夢をつらぬく情熱のバッター」(旺文社)「メジャーを揺るがす大魔神 佐々木主浩」(旺文社)がある。