第2回イタリア大会
ファシスト政権下、史上最悪の大会
第2回イタリア大会は、独裁者がスポーツを政治宣伝のために利用したルーツの1つとして歴史に名を残す。1922年のローマ進軍でイタリアの政権の座に就いたムソリーニはファシスト体制のアピールを狙い、同国サッカー連盟会長のヴァッカーロ将軍にW杯開催権獲得を厳命した。
第2回大会開催には、イタリアとスウェーデンの2国が名乗りを上げた。第1回大会はウルグアイが参加国の旅費など経費をすべて負担したが、イタリアもムソリーニの命を受け、サッカー連盟副会長のマウロ弁護士がすべての経費を持つと確約した。
その結果、32年5月にストックホルムで行われた国際サッカー連盟(FIFA)総会でスウェーデンは立候補を取り下げ、イタリアが晴れて開催権を手にした。当初ムソリーニはW杯と五輪の連続開催を狙っていたが、東京五輪誘致を計画していた日本が使者を送り説得したこともあり、五輪は断念したという。
そのため、W杯には執念を燃やした。政治宣伝として利用するには、勝利が絶対条件。そのために、あらゆることが行われた。対戦相手への圧力もあったが、特に露骨だったのは審判の買収で、イタリア戦では明らかにイタリア寄りの判定も目立った。「史上最悪のW杯」とも言われるゆえんである。
また、4カ国語で書かれたパンフレットを10万部以上発行するなど大規模な宣伝活動を行った。結果、29カ国から400人の取材陣が訪れ、275の新聞社が特派員を送り込んだ。試合の結果は9カ国にラジオ中継され、映像も収録された。ムソリーニの狙い通り、ファシスト体制の最高のアピールとなったのである。