第3回フランス大会
ドイツが併合のオーストリアが棄権
1938年に開催されたフランス大会は、当時の世界情勢抜きに語ることはできない。開幕3カ月前の3月にドイツがオーストリアを併合。予選を勝ち抜いて出場権を得ていたオーストリアだが「一国一協会」としての存在を失って棄権。1回戦で対戦するはずだったスウェーデンに不戦敗となった。選手のうち5人は、不本意ながらドイツ代表として出場せざるを得なかった。
大会5年前の33年には日本、ドイツが相次いで国際連盟を脱退。37年にはイタリアも続き、その後の日独伊三国軍事同盟締結につながっていく。36年には自由主義国と枢軸国との代理戦争の形でスペインで内乱が起き、世界中が戦争に向かって突き進んでいた。
そんな中、大会そのものも不完全な形で行われた。方式は前回イタリア大会と同じ参加16チームの勝ち抜き戦。ただ、第1回ウルグアイ、第2回イタリアという流れを受けていただけに、南米各国は「南米と欧州で交互に行うべき。今回は南米」と主張した。だが、FIFAが欧州、特にフランス主導の組織だったこともあり、そんな主張を退けて強引にフランスで開催されることになった。
これに反発し、南米のほとんどの国が出場をボイコットした。中でも開催地をフランスと争ったアルゼンチンの怒りは、78年に同国で初めてW杯が開催されるまで、40年間収まらなかった。
ちなみにフランスで開催されることが決まったのは大会2年前、36年ベルリン五輪の会場で行われたFIFA総会だった。少なくともサッカーに関しては関係良好だったドイツに、W杯2年後の40年にパリを占領されるとは、フランスの首脳たちは夢にも思わなかっただろう。